しとしとと雨の音が這う廊下で、蕎麦先生はおもむろに立ち止まった。
 
一月前に蒸発した娘の部屋へ先を歩いて案内していた母親が、いぶかしげに振り返る。
 
 
 
「先生、あの、何か?」
 
「善いですねぇ。コレ」
 
 
 
細い指で先生が突付いたのは、ハンカチで作られたテルテル坊主。
 
中庭に面した廊下の柱に、ピンでまっすぐに吊るされていた。
 
娘がこさえたんです。そう俯きながら零す母親に目もくれず、蕎麦先生はテルテル坊主のスカートを下から覗き込んだ。
 
まるで大正時代から這い出してきたような『モダーン』なブラウンのオールドスーツに、
 
弾けた雨の雫がぱたぱたと降り注ぐ。
 
 
 
「お嬢さん、お好きだったんですか?テルテル坊主」
 
 
 
イヤーン と小さく女声を作りながらスカートを捲る先生を、母親は至極不安そうに一瞥する。
 
白く透き通るような肌はしかし決して美しくは無く、病的な白が形作る相貌はどこか人間離れしている。
 
ひょろっとした長身に骨ばった顔面。薄く充血した目玉は、死にかけの兎を思わせた。
 
低く通る蕎麦先生の声が、つるりとした唇から再び廊下に這い出る。
 
 
 
「市井に、こんな話があるそうです。テルテル坊主を吊って空が晴れるのを願うのは一種の『儀式』であると。
 
 ワラ人形を使った丑の刻参りや、雛人形で『厄』を祓うのと同系統の『呪い』だ、とね。
 
 釘を打ったワラ人形を他人に奪われてはならないし、古い雛人形を誰かに譲ってもいけない。
 
 何故なら呪いに用いた人形はその代償に『不浄なモノ』を溜め込んでいて、ひょんな事から持ち主に災いをもたらすからです」
 
 
「はあ…」
 
 
「それと同様に、テルテル坊主に対してもしてはならない事が在る。
 
 それは一度吊るしたテルテル坊主の衣を剥がして、裏向きにして再び吊るすこと。
 
 そしてもう一つは、縁の下に逆さまに吊るすこと」
 
 
 
いやぁ、根拠の無い都市伝説ですがね。
 
笑いながら蕎麦先生は膝を折ってかがみ込み、縁の下を覗き込んだ。
 
つられてそちらに顔を傾ける母親の前で、蕎麦先生が真っ黒なテルテル坊主を、縁の下から拾い上げる。
 
何かがべとべとと滴るそれには、細かい白い蟲が群がっていた。
 
 
 
「…しかしね、奥さん。都市伝説とそれ以前の言い伝えと言うのは、基本的には同等なものと言えます。
 
 根拠の有無は別として、呪いや祟りと言うものは大勢の人が信じる事によって強化されます。
 
 お嬢さんもまた、信じたんでしょうねぇ……このテルテル坊主は、丑の刻参りのワラ人形と同じ役目を果たしたんでしょう」
 
 
 
母親の絶叫が響き渡る雨の廊下で、蕎麦先生は黒いテルテル坊主の中身を摘み上げた。
 
数枚の歪な生爪が、降り弾ける雨に蛆を零す。
 
かろうじて形を留めていた爪には、誰かの名前が小さく刻み付けてあった。
 
 
 
「剥がしたのか、剥がされたのか。いずれにせよ立派な『呪い』に成ったようですよ。
 
 この名前の持ち主も当然無事ではないでしょうが……呪いという字には『穴が二つ』空いてますからね」
 
 
 
ご愁傷様です。
 
ぺこりと頭を下げる蕎麦先生の前で、母親は足を投げ出してへたり込んだ。
 
 
 
 
しとしと雨音の中で、分解された黒いテルテル坊主が、ぐにゃりと笑った。
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
東城 蕎麦太郎(とうじょう そばたろう)……愛称「蕎麦先生」は、いわゆる『除霊師』や『浄霊師』ではない。単なる学者である。
 
死者の霊や精霊と言うものは基本的に尊いものであり、敬意を持って接しなければならない。
 
故に、いきなり霊力だの法力だのでねじ伏せるなどとんでもない。罰当たりめが!
 
というのが、彼の主張である。
 
 
 
よって悪意をもって襲ってくるモノや得体の知れないバケモノには手も足も出ない。
 
かろうじて身を守る程度の術はあるが、とにかくそれらを撃滅する暴力的手段を持たない。
 
 
 
 
悪く言えば、そういう問題で救助を求める人々にとっては『役立たずの心霊関係者』だった。
 
 
 
 
 
「そんな蕎麦先生でも充分役に立てる案件が持ち上がりました!オメデトー御座います!」
 
「あと数センチ。数センチ高く足を組んでくれないか。パンツが見える。パンツ……」
 
 
 
由緒正しい古参大学の一研究室。
 
革張りのソファに腰掛ける女探偵の太ももに、蕎麦先生が顔面を肉迫させていた。
 
セクハラオヤジの対処は心得てますとばかり、太股をぴっちり密着させてガードしたまま。
 
白いブラウスにスカイブルーのスカートを履いた、黒髪を短くカットした女は手にした手帳でオヤジの頭を叩く。
 
 
 
ホホバ油でビシッとなでつけたオールバックが、つるりと手帳をやり過ごした。付け過ぎ。
 
 
 
「先生、そうやって性欲丸出しの人付き合いを続けてるといつか逮捕されますって」
 
「少年院上がりの君に言われたくない。ああそうだとも。スネに傷持つ女の心の傷にだけつけこむのだ」
 
 
 
私は基本紳士だ。
 
膝を掴んでぐいぐいと股を開かせようとする蕎麦先生を、今度はハイヒールの靴先が捉えた。
 
こめかみを蹴飛ばされて仰向けに転がる蕎麦先生が、それでも親指を立てて満足げに笑う。
 
 
 
「ピンク…!」
 
「話を先に進めていいですか?和歌山県の山中に在る村が一夜にして『無人』になったそうです」
 
 
 
スカートの裾を摘み正す女探偵に、蕎麦先生がちゃっちゃと対面の、カシの木椅子に腰を下ろす。
 
足を組み腕を組み、やや斜め下に顔を向け、ダンディな角度。
 
但し声だけは真面目に、まっすぐ訊き返した。
 
 
 
「村人の集団消失事件というわけかね?」
 
 
「違います。殆どの村人は別に居なくなってはいません。
 
 二週間ほど前のある夜に、村人全員が10キロ以上離れた隣町に避難してきたんです」
 
 
「避難というと?何か災害にでも遭ったのか」
 
 
 
蕎麦先生の充血した視線を受けて、女探偵はすっと顔を近づけて囁くように。
 
 
 ・・・・
「シドモ様に襲われた。村人達はそう言っているそうです」
 
 
 
シドモ様。蕎麦先生はその名を何度か反芻するように復唱し、
 
最終的に近づいてきた女の頬を両手でたぷたぷ弄んだ。
 
 
 
「知らんね。シナトベ様なら日本神話に出てくるが。聞かん名だ。
 
 警察は何と言ってるんだね?」
 
 
「村を調べたけど事件性は認められないと。村人達は自分の意志で村を出てきたわけですし…」
 
 
 
待った!と蕎麦先生が女探偵の頬をホールドし、ぐぐっと顔を近づけた。
 
あからさまに嫌がる彼女に蕎麦先生は息も触れ合うほどの距離で、兎のような顔をフルフル震わせる。
 
 
 
「さっき『殆どの』村人は居なくなっていない、と言ったな?
 
 つまり何人かは居なくなったわけだ」
 
 
「ひ、避難先の隣町に着いた時点で、4人居なくなっていたそうです…
 
 村人は4人は『シドモ様に祟られた』と証言しましたが…」
 
 
「警察が相手にするわけがないな。しかし、一応行方不明者だ。
 
 事件性が認められんというのはどういう了見だろうな」
 
 
 
蕎麦先生の胸板を手で押し返す女探偵が、うーうー唸りながら脛を靴で蹴りまくる。
 
病人のような蕎麦先生は外見に見合わぬ頑強さでそれを無視しながら、やがてにやりと目を三日月形にして彼女を放した。
 
 
 
荒く呼吸を繰り返しながら乱れてもいないブラウスの肩を抱く女探偵が、ひきつる唇で笑み返す。
 
 
 
「行方不明者が、珍しくないんです。ふもとの街から来る登山者なんかが毎年遭難したりするもんですから、
 
 一通り捜索したらお終い。そういう地域なんですよ」
 
 
「村人達は家に戻る気は無いのか?」
 
 
「ありません。皆怯えきっていて、親戚の家とか公民館なんかに駆け込んでます。
 
 …そういった駆け込み先の家の主が、我が『牛袋(うしぶくろ)探偵事務所』に事態の究明を依頼してきたわけです!」
 
 
 
えっへん!と胸を張る 牛袋 美耶子(うしぶくろ みやこ) の胸先を、蕎麦先生が人差し指でこねくり回す、ジェスチャーをする。
 
 
 
「君の手腕を買ったわけじゃない。君の三畳一間の事務所兼自宅の看板の隅っこに勝手に掘り込んである、
 
 この 東城 蕎麦太郎 の名に客が寄ってきただけだ」
 
 
 
眉をひそめ大げさに胸を(パットでBカップがCカップに!)庇う美耶子を尻目に、
 
当大学、神学及び民俗学兼任教授は、ポケットから葉巻を取り出しバチッ!とシガーカッターで切断する。
 
続いてマッチを取り出す彼に、美耶子はやはりあからさまに非難めいた目を向けて言った。
 
 
 
「『吸っても良いかね?』ぐらい言ってくれないんですか?」
 
「以前は逐一確認してたんだがね。テレビや知識人が狂ったように喫煙者を悪党扱いするもんだから」
 
 
 
そんなら悪党でいいよ。
 
子供じみた答えを返す蕎麦先生に、美耶子はふーむ、と息をつき、それ以上は何も言わなかった。
 
 
 
 
美耶子の探偵事務所に舞い込んで来る依頼の殆どは、
 
このセクハラ心霊学者の協力無しには解決できない類のものなのだ。
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
翌日。相変わらずの小雨が降りしきる中、蕎麦先生は和歌山県内のバス停に立っていた。
 
赤いレインコートを着た蕎麦先生は黄色いリュックサックを背負っていて、同色のトランクを右手に提げている。
 
そしてそのトランクの端からは、あの黒いテルテル坊主が申し訳程度に洗浄されて、
 
ビニール袋に入れられた状態で無表情に垂れ下がっていた。
 
 
 
曇天のバス停の周りには、緑の山々。人家の類は一つも無い。
 
歩き出した蕎麦先生の後方から、スカイブルーのレインコートを着た美耶子が慌てて飛び出し、追いすがってきた。
 
 
 
「先生ヒドイッ!!無防備状態の女の子を放り出してく気ですか?!」
 
 
「おしっこぐらいチャッチャと済ませなさい。ね。子供じゃないんだから」
 
 
「トイレが無いんだからしょうがないじゃないですか!先生覗きそうだし!絶対覗きそうだしッ!!」
 
 
「覗かないよ。分かってないんだなぁ、エロチシズムと言うのは『恥じらい』と『見えそうで見えない感』が大事なんだ。
 
『さあさあそのものズバリで御座います!とくと御覧下さい!』ってのは駄目なんだ。駄目駄目なんだよ。
 
 見えないから善いんだ。恥らう顔が可愛いんだ。分かるかなぁ、肉袋クン」
 
 ・・
「牛袋です!なんですかその女の子に絶対つけちゃいけないあだ名はッ!!?」
 
 
 
信じられない!と騒ぐ美耶子を伴い、蕎麦先生は件の村に続く山道に入っていく。
 
 
 
 
通常、悪天候の日に山に登る事はタブーで、遭難の危険がある。
 
傾斜の多い山道では何が起こるか分からないし、行くべき道を見失う事もあるからだ。
 
蕎麦先生はけして小さな道へ入り込まぬようにしながら、時折トランクを持ち上げ、テルテル坊主の表情を確認する。
 
 
 
テルテル坊主が無表情ならそのまま進み、黒い染みで描かれた目と口が少しでも孤を描くと、
 
周囲を確認し、必要なら元来た道を引き返して別のルートを選んだ。
 
蕎麦先生のそういった奇行は見慣れている美耶子は、レインコートと同色のスカイブルーのリュックから
 
水のペットボトルを取り出し、口に含みながらなんと無しにたずねる。
 
 
 
「先生のカッコ、派手ですね。赤いコートに黄色のリュックって…いつも地味なファッションなのに」
 
 
「前を行く私が地味な色彩だと、木の葉なんかに埋没してしまうじゃないか。
 
 君が私を見失わないようにあえてカラフルな、景色に溶け込まない装備にしているんだ」
 
 
 
あぁ、なるほど!
 
ペットボトルをぽんと叩く美耶子に、蕎麦先生は内心舌打ちした。
 
けして嫌いな人間ではないが、この全身真っ青な女は探偵のクセに頼りがいが無さ過ぎる。
 
探偵なんて人種は、社会地位的には言ってみれば泥棒やヤクザと変わらない。
 
推理ショーを展開して難事件を解決するなんてイメージは、完全な幻想だ。
 
実力が無ければ、それこそ野垂れ死にする。
 
 
 
もっとも、彼女に限ってはその心配は無いが……
 
この普段のほほんと気取った女は、自分が溺れる代わりに他人を船から引き摺り落とす。
 
そんな醜い本性を秘めた、本来の意味での犯罪者なのだ。
 
少年院に入るような女の八割には、それなりの理由がある。当然の話だ。
 
 
 
幸い人並みの善悪観念だとか、良心の類は持ち合わせているようだが、
 
一度敵意や悪意を抱いた相手には……
 
 
 
(こいつに殺され、とり憑いている連中はいずれこいつに牙を剥くだろうな。
 
 助けてやっても善いが……その時は少し恐い目に遭わさんと。こいつのためにならん)
 
 
「先生、チョコ食べます?」
 
 
 
あっ!エンゼルマーク!とはしゃぐ美耶子にぐるりと振り向くと、
 
蕎麦先生はそのレインコートの腹に手を突っ込み、中の肉を思いっきりねじ上げた。
 
無言で攻撃してくる蕎麦先生に絶叫する美耶子の声が、雨の山中をこだました。
 
 
 
 
 


 

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