朝。しっとりと湿った草の上を、三人の男女が歩いている。
 
赤い浴衣を着て、麦藁帽子を被り、顔にホッケーマスクを着けた美耶子が、釘バットをガリガリ引きずりながら。
 
シゲと、バイカースーツを上半身だけ脱いだナナコを伴い、村内を歩く。
 
 
 
「……」
 
 
 
異形の鳥居と、屋敷。蕎麦先生が消えたそこを、美耶子は呆然と眺めた。
 
入り口の木扉は閉ざされ、中をうかがうことは出来ない。
 
時刻は…シゲが安いデジタル時計を見やる。
 
10時、30分。
 
既に雨はやみ、曇り空からは天使の階段が降りてきていた。
 
 
 
「先生…」
 
 
 
塩の結界の中で待つ自分達を置いて、蕎麦先生はとうとう帰ってこなかったのだ。
 
耐え切れなくなった美耶子が、もう一度「先生ー!」と木扉に向かって叫んだ。
 
 
 
「何だよ」
 
 
 
背後から間髪いれずに返ってきた返事。三人が三人とも「ぎぇっ!」と悲鳴を上げて仰け反った。
 
転んだり振り返ったりする三人の視線の先に、体中にどす黒いゴミだか灰だかわからぬモノをかぶった蕎麦先生が居た。
 
割り箸を乗せたどん兵衛を両手で大事そうに捧げ持ち、ふらふらと草の上を歩いている。
 
 
 
その様子に喜んでいいのか心配した方がいいのか、ひきつった表情でシゲが声を上げた。
 
 
 
「先生よォ、へ、ヘーキだったんスか?俺らマジ心配したつーか…」
 
「お湯…」
 
 
 
目もやらずに唸るように零す蕎麦先生。
 
へっ、と目を丸くするシゲの前で、蕎麦先生が天を仰ぎ、断末魔のような金切り声を張り上げる。
 
 
 
「 お 湯 は ど こ だ ぁ あ あ あ あ あ あ あ あ ー ー ー ー ー ー ー ! ! ! ! ! ! ! 」
 
 
「沸かしてきます!」
 
 
 
美耶子とナナコが塩の結界を張った家に走る。
 
一人狂人と残されたシゲは、ただ半泣きでマゴつくしかなかった。
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
お湯を注いだどん兵衛を中心に、三人がなんとなく正座で蕎麦先生の様子を伺う。
 
彼は村内で唯一見つけた5メートル四方の畑から、痩せたチビ大根をいくつも盗んできては、
 
それをトランクの中から取り出したおろし金で削りおろしている。
 
山盛りの大根おろしをカップそばに投入したところで、美耶子がはい!と挙手した。
 
 
 
「先生、それ服に何つけてるんですか?」
 
「塩だ。黒焦げになった塩だよ」
 
 
 
どん兵衛のフタを閉めてから、蕎麦先生が胸をはたく。
 
ゴミだか灰だか分からぬそれは、ぼそぼそ音を立てて辺りに舞い散った。
 
周囲で上がる咳に構わず、ズボンのポケットから黒塗りの財布を取り出す。
 
この国の政治家の莫迦さ加減の結晶たる二千円札がぎっしり詰まった財布のカード入れから、
 
それこそ灰そのものがばさりと落ちてきた。
 
 
 
無事な紙幣の下で完全に燃え尽きている、何か。
 
蕎麦先生が落胆した顔で深く息をつく。
 
 
 
「見たまえ。稲荷大明神様の護符が燃え尽きている。一目連様のもだ。どうやら本当に酷い相手に遭ったらしい―――」
 
 
 
零れ落ちる灰の中から、たった一枚、半焦げの恵比寿の護符が蕎麦先生の手に落ちてきた。
 
…最後の砦だったな。
 
そう愛しそうに恵比寿様を撫でる蕎麦先生。
 
商売の神様だろ、それ。とは思っただけで口にしない美耶子。
 
 
 
「塩とおふだが焦げたって…先生、あの中で何に遭ったんですか?」
 
「悪いモノだ。とにかく、悪いモノだ。魔よけの道具を身につけていなかったら…」
 
 
 
きっと、私がこうなっていた。
 
足元に積もる灰の山を見ながら、蕎麦先生が思い出したようにトランクから七味を取り出す。
 
カップそばに七味をたっぷり振りかけ、割り箸を咥え割る彼に美耶子がさらに身を乗り出して問う。
 
 
 
「じゃ、じゃ、それが『シドモ様』なんですかね!?やっぱり心霊的怪奇事件だったわけですね!!」
 
「一体全体どうしたんだその格好」
 
 
 
言葉のドッジボールとはこの事だ。ホッケーマスクの面を近づけてきた美耶子の顎を掴み、
 
蕎麦先生が今更非難がましくジィロジィロとそのいでたちを見咎める。
 
 
 
「昨日まで下着姿だったくせに、何で浴衣にジェイソンマスクに麦藁帽子だ?
 
 どんな趣味だ?浴衣と麦わらは盗ってきたのか?似合わんぞ。いや、ある意味似合ってるが」
 
 
「真面目に答えてください!」
 
 
「真面目に着替えてください」
 
 
 
どん兵衛をすすり始める蕎麦先生に「ウキーッ!」とかんしゃくを起こす美耶子。
 
そんな二人を黙って見ていたシゲが、不意におずおずと手を挙げた。
 
はいシゲ君。割り箸で自分を差す蕎麦先生に、
 
 
 
「あの、先生……俺達そもそも、あの屋敷にユミを探しに行ったんスよね?」
 
「ああ、そうだな」
 
 
 
 
 
 
「ユミは、どうなったんスか?」
 
 
 
ずっと聞きたかったんスけど。そう続けるシゲの言葉に、他の二人もさっと顔色を変えて蕎麦先生を見る。
 
どん兵衛と箸を持ったまま、蕎麦先生は表情一つ変えずに言った。
 
 
 
「私より先に屋敷を出たはずだ。…会ってないのか」
 
「会ってないっスよ!マジ、声も聞いてないス!」
 
「彼女と一緒に来た男はどうした。ナオキと言ったな。彼は?」
 
「あいつは…塩の線から、出たくねえって……チョーダセェッスよ!てめぇの女だろーによ!!」
 
 
 
「…先生、やっぱりシドモ様に…?」
 
 
 
声を潜めて言う美耶子。
 
しかし蕎麦先生はどん兵衛の汁を飲み干し、否定も肯定もせずに、
 
美耶子を無視して二人の若者に言い放った。
 
 
 
「陽が出ている内にナオキを連れて山を降りたまえ。そして警察に…無駄かも知れんが。ユミが居なくなったと通報するんだ」
 
「またっスか!素人は引っ込んでろってか!?」
 
 
 
冗談じゃねェ!昨晩は引いたシゲが、今回は掴みかからん勢いで蕎麦先生に食って掛かる。
 
 
 
「屋敷から出たんなら、きっとそのへんに隠れてるんスよ!手分けして探した方が早ェ!」
 
 
「一人で山を降りたのかも知れんぞ。町に着いていたら保護されているだろうし、道に迷ったならやはり警察の捜索が必要だ。
 
 頭を使え、シゲ。恐ろしい場所から逃げ出した娘がお前達と会えず、朝になっても姿を現さないんだ」
 
 
 
即ちユミはもう村には居ないか。あるいは、村内のどこかで身動きできない状況にある。
 
警察を呼ぶのが最善なんだよ。お前に出来るのは、それだけだ。
 
 
 
そう続けた蕎麦先生を、シゲが殴り飛ばそうとして。
 
顔面にカップ麺の容器ごと掌底を打ち込まれ、がくりと膝と手をついた。
 
 
 
「おい先生!何してんだよッ!!」
 
「こっちだって君らをブチのめしたくなんかないさ。だがな、自分の尻を自分で拭けん以上、口答えは許さんよ」
 
 
 
怒声を上げたナナコの前で、蕎麦先生が四つんばいになったシゲの肩に手を回す。
 
ゆっくりと優しげな仕草だったが、掴まれたシゲの肩が、嫌な軋みを上げた。
 
 
 
「シゲ。君はバカだが善い奴だ。友達のために命を張れる男は尊敬に値する。たとえ浅はかなガキでもな」
 
 
「…」
 
 
「本当にユミの事を思うなら、自分が出来る事だけを誠実に実行するんだ。
 
 この村に潜む怪異には、君は全く歯が立たない。だから君は、ナナコとナオキを安全な場所まで避難させるんだ。
 
 そしてユミのために警察を動かし、付近を捜索させてくれ。それは今、君にしか出来ない事だ」
 
 
 
蕎麦先生の、精一杯シゲの気持ちを汲んだ言葉だった。
 
言葉だけは。
 
 
 
 
 
シゲは自分だけに見えるように向けられた、蕎麦先生の「うぷぷっ」と言う三日月形の嘲笑に。
 
坊主頭にいくつも青筋を浮かべ、白目を剥いた。
 
 


 

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