「残念だ。あの娘もとうとうテレビに出てしまったか」
 
 
 
シュリンプカクテルをごっそり膝に乗せて食べていた蕎麦先生が、突然そんな事を呟いた。
 
対面のソファーに座っていた 三神(みかみ) 教授が、驚いたようにえっ、と声を上げる。
 
たった今まで彼らは、ナマハゲの文化的功績について熱い議論を交わしていたはずだった。
 
 
 
見れば蕎麦先生の視線は、ソファーの脇に置かれたプラズマテレビに映る、二十代そこそこの女の顔に注がれていた。
 
 
 
「見てくれ。善い顔をしているだろう?けっして美人ではないが、知性のある上品な顔立ちだ。
 
 彼女は 河上里美 と言って、舞台女優だった。負の感情を表現するのが上手い端役専門でね。
 
 正々堂々、演技で勝負する素晴らしい人材だった。ただ……御覧のとおり、いささか胸が豊か過ぎてね」
 
 
 
海老をソースの海で泳がせながらため息をつく蕎麦先生に、三神教授は黙ってソファーから身を乗り出す。
 
自分の顔を覗き込んで来る同期のハゲ男に、蕎麦先生は組んだ足の靴先を揺らしながらもう一度残念だ、と繰り返した。
 
 
 
「テレビの説明を聞く限りでは、今度ドラマの主演に抜擢されたらしい。
 
 原作の漫画に一切敬意を払わない、ゴミ以下の脚本と監督が織り成す最低の茶番劇だよ。
 
 彼女は間違いなく脱がされるぞ。あの監督はとにかくヒロインは脱がなきゃならんと思ってるゲス野郎なんだ」
 
 
「おい、東城」
 
 
「才能ある若者を無能な老害が食い物にするサマは見てられんよ。
 
 何故一流の監督、一流の舞台をあてがってやらんのか。ずっと舞台女優でもいいじゃないか。
 
 無垢な彼女が下賤な男どもの視線に裸体をさらされ、心に深い傷を負うと思うと私は、私は……」
 
 
「あの女優はもう脱いでるよ」
 
 
 
海老を齧ろうとしていた蕎麦先生の手が、ぴたりと止まった。
 
三神教授がハゲ頭を手にしたワイングラスで擦りながら、容赦なく続ける。
 
 
「しかも舞台女優になる前だ。ヌードを何冊分も出してる……俺もお世話になった」
 
「阿部寛、また背、伸びたんじゃないか」
 
 
伸びねぇよ、と席を立ち、三神教授がテレビの電源を切ってしまった。
 
テレビの音声が消えると、二人の周囲には静かなクラシック音楽と、人々の談笑の声が戻ってくる。
 
高いスーツやドレスを着た人々が高貴な話題に花を咲かせる中、蕎麦先生はテレビのワイドショーを見て、
 
女優とドラマとヌードの話をしていたのだ。
 
 
 
シュリンプカクテルを食べ飽きた蕎麦先生がげっぷと共にそれをソファーの座席に置くと、
 
すかさず美青年のボーイがやってきて、会釈と共に下げていく。
 
代わりに会場のバーからこれまた美女のウェイトレスがやって来て、生ハムとフルーツのカナッペを差し出してきた。
 
蕎麦先生は一旦笑顔でカナッペを受け取ってから、ウェイトレスが背を向けた瞬間げんなりした顔で口に放り込んだ。
 
カナッペが嫌いなわけではない。このパーティーの趣向そのものが気に入らないのだ。
 
 
 
「……そう嫌そうな顔をするなよ。俺達の同期で、一番の出世頭の 佐倉 静江(さくら しずえ) の主催だぜ。
 
 タダ飯食ってると思えばあり難いだろうが」
 
 
「彼女は善い奴さ。だが正直な話、こういう場を取り仕切るセンスはなっちゃいないね。
 
 ボーイやウェイトレスは気を利かせすぎて、逆に忙しない気分になる。食い物の選び方も駄目だ。
 
 向こうのテーブル見てきたか?一缶何十万もするキャビアが赤いウインナーと一緒に皿に乗ってたぞ。信じられんよ」
 
 
 
文句を垂れながらカナッペを飲み込み、飲み物を手で探す蕎麦先生。
 
その手に、細い指が冷たいグラスを手渡した。顔を向ければ、驚くような麗人が、ファンデーションまみれの笑顔をたたえている。
 
正に件のパーティー主催者、佐倉静江氏であった。
 
悪びれもせずに「どうも」と礼を言い、グラスに口をつける。
 
酒だと思いきや、麦茶だった。多分100円ショップで売ってるパックのヤツだ。
 
 
 
「赤いウインナーも麦茶も、私、好物ですの。オホホ……」
 
 
「わざとらしく笑うな。よくもそのセンスで、その年で、億万長者と結婚出来たもんだ。
 
 何?全国チェーンのスーパーの社長だったか?」
 
 
 
蕎麦先生の問いに、うんうんと満面の笑みで頷き、ソファーの肘掛にデカい尻を下ろす佐倉氏。
 
骨ばった白い蕎麦先生の顔を両手で愛でながら、佐倉氏は対面の三神教授にも愛想を振りまく。
 
金髪のポニーテールに、大きなエメラルドの、恐らくはネックレスとおぼしきものが、髪留めの代わりに巻き付いていた。
 
 
 
主催者の登場に、周りの客がソファーに集まってくる。
 
いよいよ居心地が悪くなり席を立とうとする蕎麦先生を、佐倉氏は白く美しい大根のような足でからめとる。
 
 
 
「まぁーまぁー待ってよ蕎麦クン。今日はあたしのお食事会に来てくれてホントありがとね。
 
 静江感激。あっ、違う。静ちゃんチョーカンゲキッ☆」
 
 
「痛々しいからやめてくれ……大学時代から変わらないにも程がある。
 
 君が我々と同じ教授職に在ると思うと泣けてくるよ。何て幼いんだ、君は」
 
 
「あっ、大学も今度の春で辞めるんだ。働く必要ないしー、っていうか、あたし元々社会福祉とか嫌いなんだよね!」
 
 
 
蕎麦先生は民俗学と神学、三神教授は臨床心理学、佐倉氏は社会福祉学を専門にしていた。
 
他の客の視線と佐倉氏から逃れるべく、蕎麦先生は力づくで席を立つ。
 
麦茶の入ったグラスをバーのカウンターに突っ返す彼を、佐倉氏は怨霊のように追ってきて、背中越しに顔を覗き込んだ。
 
冷ややかな視線を返す蕎麦先生を、佐倉氏が急に真面目な顔になって見返す。
 
 
 
「あのさ、帰る前にちょっと聞いて欲しい話があるんだけど……」
 
「私は飯を食いに来ただけだぞ。退職の相談なら事務所にでも聞いてくれ」
 
「まだあの『クセ』治ってない?」
 
 
 
バーのウェイターが、二人のためにピンクのドンペリを開け始めた。
 
佐倉氏の言葉を受け、口を引き結び、黙る蕎麦先生。
 
他の客が追いすがってくる前に、佐倉氏がその手を取り、懇願した。
 
 
 
「相談に乗ってよ。友達じゃなく……胡散臭い『心霊学者』としてさ」
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
蕎麦先生こと 東城 蕎麦太郎(とうじょう そばたろう)は心霊研究者である。
 
勿論そんな怪しげな肩書きは堂々と名乗れるようなものではなく、表向きは民俗学・神学の真っ当な学徒と言う事になっている。
 
大学での教員生活を送りながら、たびたびフィールドワークだの研究調査だのと言い訳をして、
 
世の怪奇現象や心霊的事件に首を突っ込み、かき回しているのである。
 
 
 
彼には情報収集装置として『牛袋(うしぶくろ)探偵事務所』なる協力機関があり、
 
そこの所長である『牛袋 美耶子(うしぶくろ みやこ)』こそが、実質的な彼の唯一の相棒であるわけだが。
 
今、蕎麦先生は相棒の美耶子を伴う事無く、大学の同期である男女と共に白い廊下を歩いている。
 
時刻は午後10時過ぎ。白い壁と白い天井、白い床に囲まれた通路を、
 
きらびやかなドレスを着た佐倉氏と、頭部をハゲ散らかした三神教授を両脇に進む。
 
 
 
そこはパーティー会場である、佐倉氏の屋敷ではなかった。
 
黒塗りの巨大なリムジンに乗せられて、約一時間。
 
表に『児童福祉促進救済センター』という看板のかかった、ビルの中だ。
 
 
 
「蕎麦クンって、昔から試験前とか、ヤな事があったりするといつも『クセ』が出てたよね。
 
 白いクレヨンで、白い画用紙ガリガリ擦る、アレ。正直皆引いてたけど」
 
 
「私の信仰だ。引かれようと気味悪がられようと、止められるもんじゃない」
 
 
 
白い廊下にカツカツと靴音を響かせながら、蕎麦先生が忌々しげにスプーンでキャビアを口に運ぶ。
 
件の、何十万もするキャビア缶だ。パーティー会場から持ってきたらしい。
 
その隣で三神教授が、缶ビールを啜りながら佐倉氏に壁を指差して言った。
 
 
 
「おい、ここは児童福祉の施設だろう?いくらなんでも白すぎるぞ。壁も床も天井も……
 
 白ってのは怖い色だぞ。昔精神病院なんかで真っ白な部屋に人間を閉じ込め、病状を悪化させた事が……」
 
 
「ご心配なく、この階は本来子供達を入れる場所じゃないの。
 
 と言うより、まだ用途を決めてない階。改装途中なのよ」
 
 
 
なんだってそんな所へ連れてきたんだ。
 
目だけでそう問う蕎麦先生に、佐倉氏は廊下の突き当たり、
 
本来ドアがはめ込まれているべき四角い穴の向こうを指差した。
 
廊下には照明が点いているが、穴の向こうの部屋は更に明るい。
 
何が待っている?問われる前に佐倉氏が口を開いた。
 
 
 
「蕎麦クンのその『クセ』さ……いつから現れ始めたの?子供の頃?」
 
「……答える義務があるのか?」
 
「あるわ。ひょっとするとその答えが、何人かの人生を救うかもしれない」
 
「もったいぶった言い方はよせ。ほら、部屋に着いてしまうぞ」
 
 
 
言うが早いか、三人はドア型の穴を潜り、光り輝く部屋の中へ立ち入っていた。
 
 
 
蕎麦先生と、三神教授が無表情に入り口に立ちすくむ。
 
白い壁に囲まれた空間には大きな丸いルームライトが太陽のように光を注ぎ込み、
 
その下では、数人の白いパジャマを着た子供達が、
 
おびただしい量の画用紙を部屋中に広げ、白いクレヨンをがりがりとこすり付けていた。
 
 
 
壁際には山積みにされた画用紙の束と、クレヨンの箱。
 
蕎麦先生がそれを手に取り、中身を空けると、総て白い、白墨のようなクレヨンだった。
 
 
 
「どうしたんだ、この子達は……」
 
 
「うちで預かってた児童なんだけど、先月突然『発症』したの。
 
 職員が他の子と一緒に、公園に遊びに連れて行った帰り……
 
 ほんの数分、姿が見えなくなったんですって」
 
 
「どこに行ってたんだ」
 
 
「分からない。道路の曲がり角から出てきたら、もう正常じゃなくなってた。
 
 返事もしないし、無理に食べさせないと食事も取らない。ずっと画用紙にクレヨンを塗りたくってる。
 
 ……そう言えば、行方不明になって帰って来た時、もう既に画用紙とクレヨンを持ってたって」
 
 
勿論職員が買い与えた物じゃない。
 
そう続ける佐倉氏を背に、蕎麦先生と三神教授は近くの少年の元にしゃがみ込んだ。
 
少年の目は空ろで、半開きになった口からは細い唾液の線が垂れている。
 
がりがりと絶え間なく擦り付けられるクレヨンは既に欠片と化しており、それを握る指には血が滲んでいた。
 
蕎麦先生が何度か少年に呼びかけ、目の前で指を弾いてみる。
 
無反応。
 
ひたすら画用紙に向かい続ける少年から、再び佐倉氏を振り返る。
 
 
 
「何故改装途中の階に閉じ込める?隔離か?」
 
 
「この子達が望んだのよ。他の部屋だと暴れるの。電気を消しても駄目。
 
 白い部屋で、明るい照明がいつも点いてなきゃパニックを起こすわ。
 
 当然親御さんにも会わせられない」
 
 
「はっきり言おう。私では畑違いだ。
 
 三神や、警察の仕事だよ。これは」
 
 
 
立ち上がる蕎麦先生の横で、その三神教授が顎に手を当て、うーむ、と唸る。
 
呆けた少年の顔を見つめながら、太い眉毛が細かく震えた。
 
 
 
「詳しく調べなければ分からんが、奇妙な症状だ……
 
 職員が目を離した数分で、全員がこうなった?問題行動が完全に統一されているのもおかしい。
 
 何より最初に白い画用紙とクレヨンをこの子達に渡した者の存在が不気味だ。意図的なものを感じる……」
 
 
「既に警察や、精神科医が何人も動いた後よ。お手上げだって言われたわ……
 
 警察は事件性が無いって言うし、精神科医は何も分からないって。
 
 引き続き治療はしてもらってるけど、望み薄ね……
 
 私はもうこの施設を人に任せるつもりだけど、引退直前にこんな事が起こってしまって」
 
 
 
すっきりしないのよ。
 
そう続ける佐倉氏が、じっと蕎麦先生を見詰め、腕を組んだ。
 
既にキャビアを食べつくしていた蕎麦先生は、空の缶をスプーンでコツコツ叩きながら、その視線を横顔で受ける。
 
……自然と、三神教授も彼を見ていた。室内に、クレヨンを擦る音だけが満ちる。
 
 
 
「蕎麦クン……あなた、昔精神病院に居たって」
 
 
 
佐倉氏が沈黙を破った瞬間、蕎麦先生が彼女の眼前に飛び込み、壁に追い詰めた。
 
三神が「おいっ!」と声を上げて立ち上がったが、蕎麦先生の血走った目を見、足が止まる。
 
壁に手をついて唾を飲む佐倉氏を、その、肩口を、蕎麦先生の白く細い指が、死神のように掴んだ。
 
 
 
「僕は、正常だ」
 
 
 
『僕』……一人称が、『私』から変わっている。
 
ゆっくり、喘ぐような息をしながら、佐倉氏が頷く。
 
その肩口から首に指を這わせながら、蕎麦先生が、底冷えのするような、無感情な声で、白状する。
 
 
 
「まるで……昔の自分を見ているようだよ。白い部屋で。白いパジャマを着て。
 
 恐ろしく強い光に晒されながら、ずっと画用紙を白く塗っていた。
 
 そうする事で、僕は、『神様』に、守られる。そう、『信仰』していたんだ」
 
 
「……この子達は、あなたそっくりよ……蕎麦クン」
 
 
 
佐倉氏の顔に、蕎麦先生の顔が迫る。その目から激情は消えていた。
 
総ての人間性が消えていた。
 
 
 
「記憶にフタをされたんだ。僕は何故か、どういう事情かで、確かに『そこ』に居たよ。
 
 精神病院?……そうかも知れない。違うかも知れない。とにかく、幽閉されていた。
 
 愚劣な誰かに観察されていたんだ。白い地獄に閉じ込められて……
 
 佐倉君。君は僕に何を期待したんだ?児童福祉のプロのクセに。
 
 児童の問題を『怪奇現象』なんてバカげた言葉にすり替えて、僕に丸投げしたいのか?」
 
 
 
佐倉氏が、初めて眉を吊り上げ、蕎麦先生を睨んだ。
 
自分の体に触れていた手を、逆に握り返す。
 
冷ややかに見下ろす蕎麦先生を、気の強い瞳が見上げ返した。薄い唇が、はっきりと、言葉を吐く。
 
 
 
「頼れる総ての知識に頼って、何が悪いの!?常識的な手続きじゃ何も出来なかったわ!
 
 この子達に何が起こったのか、どうすれば助けられるのか、誰にも分からない!
 
 でも蕎麦クン、あなたは……この子達と、同じ『経験』をしている……
 
 何かの糸口になるなら、それだけで充分だわ!心霊だって怪奇現象だって信じるわよ!
 
 だから……助けてよ!!」
 
 
 
部屋に満ちるクレヨンの音を、佐倉氏の怒声が貫き、そして呑み込まれていった。
 
蕎麦先生を睨む佐倉氏の目が、細い涙を流し、厚化粧を溶かして床に落ちる。
 
二人を見守っていた三神教授が、何とか仲裁しようとまごつき始めると……
 
蕎麦先生が疲れたように息を吐き、佐倉氏の肩口にごつん、と頭を埋めた。
 
「ちょっと!」と慌てて声を上げる佐倉氏に目もやらずに、蕎麦先生が右手の人差し指を立ててみせる。
 
 
 
「正式な依頼なら、足代に百万出してもらおう。解決したら、もう百万。今の君なら安いもんだろう。
 
 ……泣かせて悪かった。佐倉」
 
 
 
許せ。
 
自分の肩口にそう落とす蕎麦先生に、佐倉氏は一度笑顔を浮かべた後、どう言って良いか分からず、
 
 
 
三神教授にブイサインを出しながら、蕎麦先生を抱きしめた。
 
 
 
 
 


 

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