目を開ければ、茶色い床が見えた。
 
錆だか埃だか、得体の知れない諸々に覆われた、タイルの床。
 
一度暗闇で意識を手放した蕎麦先生は、自分がエレベーターの外にうつ伏せに倒れている事を理解するのに
 
とても長い時間を要した。
 
ゆっくりと床についた手に力を入れ、身を起こす。
 
目に入った世界は、床と同じ汚い色に染まった廊下だった。
 
壁も天井も、元の色が分からぬほどに汚れ果て、空気中にごく細かい塵を降らせている。
 
背後を振り向けば、閉まったエレベーターの扉。そこで蕎麦先生は初めて、周囲が視認出来る事に違和感を覚える。
 
意識を失う前、この場所は真っ暗闇だったはずだ。
 
見上げれば茶色い汚れに覆われた、裸電球が点々と天井にぶら下がっている。
 
発光し、小さな虫が集っているそれらには、確かに電気が通っているようだ。
 
 
 
誰かが、電気を点けたのだろうか。
 
蕎麦先生は顎に鈍い痛みを感じ、口元を押さえて俯いた。
 
ころりと、歯の欠片が床に落ちる。
 
暗闇の中、誰かに……エレベーターを呼んだ誰かに、背後から擦られた、歯だ。
 
次第に、頭が冴えてくる。膝に力をいれ、立ち上がる。
 
茶色く汚れた世界は薄暗く、異常な閉塞感があった。
 
蕎麦先生の前には、T字に分かれた廊下が見え、突き当たりの壁には誰かの顔が微笑んでいる。
 
足を引きずるように近づくと、それは古いポスターのようだった。
 
 
 
『あなたには  人権  がありません』
 
 
 
両目を何かで塗り潰された女性の脇に、やはり一部を塗り潰された文字が浮いていた。
 
……元は何と書いてあったのだろう。ぼぅっとポスターを見つめる蕎麦先生の足元に、音もなくボールが転がってきた。
 
靴先に当たって止まるボールは、拳大のビニール製のボールだ。
 
思わず転がってきた右方向を見ると、その瞬間何かが分かれ道に隠れた。
 
数秒の間。
 
不思議と、蕎麦先生の心には緊張が生まれなかった。
 
ボールを拾い上げる。透明のボールには空気と一緒に、乾いた血と数本の髪の毛が入ってこびりついていた。
 
それを手に、何かが隠れた分かれ道へと進む。
 
一歩歩くごとに、靴底がじゃりじゃりと音を立てた。
 
錆と埃の積もった廊下……
 
蕎麦先生は振り向かなかったが、彼の背後には、一人分の足跡だけが、くっきりと残されていた。
 
廊下には、生きた人間である蕎麦先生の足跡以外、何者の痕跡も無い。
 
ボールが転がってきた跡すら、存在していなかった。
 
 
 
「この廊下を、僕は知っている」
 
 
 
蕎麦先生が呟いた瞬間、どこかでファンが起動する音と、風を激しくかき回す音が響いた。
 
ゆっくりと迫ってくる風が、周囲の錆と埃を吹き飛ばし、微細な砂嵐のようにして蕎麦先生に吹き付けた。
 
顔もかばわずにそれらを受け、痛みに目を閉じた蕎麦先生が、目を擦り再び開いた時。
 
分かれ道のすぐそこに、誰かが蹲っているのが見えた。
 
 
 
白いパジャマを着た、髪の長い、子供。
 
素足には茶色い錆が刺さって入り込み、どす黒く変色している。
 
体勢だけ見れば泣いている様に見えるが、こちらを背にしている子供は、無音で硬直していた。
 
生きている人間なら必ず示すはずの僅かな体の揺れも、呼吸の気配も無い。
 
まるで、石の様に、固まっている。
 
 
 
蕎麦先生はその背中を眺めながら、この子供は、エレベーターで自分に迫ってきた者とは違うな、と思った。
 
あの時の何者かは背後から蕎麦先生の口を塞いだが、目の前の子供には、それだけの身長が無い。
 
立ち上がってもせいぜい、蕎麦先生の腰までだろう。どんなに腕を伸ばしても、口までは届かない。
 
そんな事を考えながら、蕎麦先生は躊躇なく子供の肩に手を伸ばした。
 
指先がガサガサした感触の髪に触れ、さらに不潔なパジャマに触れる。
 
髪とパジャマには確かに触れた実感があるのに、パジャマの下の肉には、まるで地蔵のような硬い感触しか無かった。
 
 
 
反応の無い子供の肩を掴んだまま、蕎麦先生は目を細める。
 
廊下と同様、目の前の後姿にも、遠い昔に見覚えがあったのだ。
 
頭が焼け付くようにジリジリと痛み、視界に細かい火花のようなものが散る。
 
思い出してはいけないものを思い出そうとしているからなのか……
 
 
 
『キヨミちゃんは、つくえ。』
 
 
 
不意に誰かが、意識の底で言った。
 
はっとして蕎麦先生は、子供の足首を見る。
 
皮がむけて痛々しくささくれた跡が、両足首に線となって這っていた。
 
さらに子供の頭上から、股の内側に垂れた手を見る。
 
両手首にも、同じ跡が……
 
 
 
「アタシハ、ツクエ」
 
 
 
突然顔を上げた子供が、丸い穴のような口から、声を出した。
 
意識が弾ける前に、蕎麦先生は自分の左手に噛み付き、思い切り歯を立てた。
 
鋭い痛みと血の味。目の前の子供はそのまま、髪に隠れて目元が見えない、灰色がかった顔を近づけてきた。
 
蕎麦先生のまぶたが激しく痙攣し、全身に鳥肌が立つ。
 
首に回される手は硬く重く、触れられた皮膚がそがれるようなザラついた感触があった。
 
眼前に迫る異形の顔。蕎麦先生はますます手を強く噛みながら、それでもうめくように、歯の間から声を絞り出すように、言った。
 
 
 
「……キヨミちゃん……?」
 
 
 
瞬間、ばきりと音を立てて子供の丸い口が閉じ、目元を隠していた髪が、後ろに流れた。
 
灰色がかった顔面に、黒糸で縫いつけられた両目が在った。
 
それを見た途端、蕎麦先生が人とは思えぬ叫び声を上げる。
 
 
 
脳内にフラッシュバックする、光景。
 
明るい庭で食事をする少女。楽しそうに話をする彼女。
 
暗い部屋に連れてゆかれる。沢山の机が積み上げられた、物置。
 
机の一つに仰向けに寝かされ、両手両足を机の脚にロープで縛り付けられる。
 
そのまま放置され、狂ったように泣き叫ぶ。
 
暴れるたびに、ロープが手足に食い込み、皮と肉をこそぐ。しまいには机ごと、転倒する。
 
何日かして水と食べ物を運んできた職員に噛み付く。殴られ、それでも反抗し……
 
糸で、両目を縫い付けられる。
 
それらの一部始終を
 
 
 
蕎麦先生は、見ていた。
 
 
 
何故?何故だ?
 
キヨミと呼ばれる少女が閉じ込められた部屋の隅、膝を抱えて怯える少年の姿が脳裏に浮かぶ。
 
何故見ていた。何故ずっと見ていた。
 
 
 
絶叫する蕎麦先生に抱きついたまま、キヨミは死人の顔を寄せ、頬擦りをした。
 
縫い付けられた目から黒く小さい蟻が這い出してきて、蕎麦先生の顔を上がってくる。
 
白目を剥いて叫び続ける蕎麦先生に、キヨミは幾分かはっきりした声で言った。
 
 
 
「怒っテなイよ……」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美耶子の背後で、突然エレベーターの起動音がした。
 
びくりと振り返る美耶子が、足元から上がってきているらしいエレベーターの気配に、ほっと息をつく。
 
蕎麦先生が行ってしまってから、そろそろ一時間が経とうとしていた。
 
一時間経てば蕎麦先生を待たずに、この恐ろしい暗い道を一人で引き返さねばならない約束だったのだ。
 
 
 
「ギリギリじゃないですか、勘弁して下さいよもう……」
 
 
 
釘バットを腋に挟み、いそいそとリュックとトランクを回収する。
 
コンクリートに覆われた周囲には、相変わらず数個のライトボールの光と強力ライトの光しか無い。
 
こんな所にこれ以上待たされるのは御免だ。蕎麦先生の収穫があったにせよ無かったにせよ、
 
さっさと病院を出て海辺へでも離れたい。
 
近づいてくるエレベーター室の音を背にしながら、美耶子はふと、開けっ放しのトランクの中を見てしまった。
 
 
 
 
 
 
テルテル坊主が、バラバラになっている。
 
目と口だった部分が完全に裂けて、トランクの中に散らばっていた。
 
「えっ」と声を漏らす美耶子の目の前で、テルテル坊主だった残骸がぶるぶると震え……
 
ころんと、エレベーターの方を『見た』。
 
 
 
美耶子の背を、開いたエレベーターの中から漏れる、蛍光灯の光が照らす。
 
目を見開く美耶子の背後から、はっきりと呼吸音が聞こえた。
 
 
 
……蕎麦先生じゃない。
 
荒い息遣いは、それと共に吐き出される声は、女のものだ。
 
ぶつぶつと、何か呟いている。
 
美耶子はそのまま、元来た方へ走り出したかった。
 
何もかも置き去りにして、逃げ出すべきだった。
 
 
 
なのに、体が勝手に。
 
エレベーターを、振り返っていた。
 
 
 
やせ細った、体。灰色の、肌。
 
肌着の残骸のような布切れを手足に引っ掛けた、半裸の、骨と皮の女。
 
髪がまばらにしか生えていない頭部は黒い血にまみれ、両目は半分飛び出している。
 
天井を仰ぎながら、開いた口から舌を垂らし、犬のように小刻みに息をしていた。
 
そのまま、天井を見上げた体勢のままで、
 
女は美耶子に、近づいてきた。
 
 
 
喉に詰まった絶叫が、嘔吐となって床に落ちた。
 
美耶子はトランクを引っつかむと、壁にぶつかり、足をもつれさせて転びながら、
 
暗い道を全速力で走り出した。
 
闇の中、半狂乱になって走り続ける美耶子のポケットから、
 
灰となった護符が、ざらざらと飛び出していった。
 
 
 
 
 


 

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