「一番辛いのは、忘れられる事さ」
突然部屋に明かりが満ち、蕎麦先生は眩暈を覚えて床に手をついた。
格子を掴む女の姿は一瞬にして掻き消え、埃にまみれていた部屋の壁が、
今は磨き上げられたかのように光沢を放っている。
視界の急激な変化に二、三度頭を振り、背後のケンスケを見やると、
彼は白いパジャマを着て、両手に二体のマネキンを引きずりながら、
開いた扉の外へ出ようとしていた。
生きていた頃は、確か高校を卒業するぐらいの年だった彼を、
蕎麦先生はふらつきながら追う。
光り輝く扉の外には、両側に開け放たれた大きな窓がずらりと並ぶ、コンクリートの廊下。
長く広い廊下を、がりがりと音を立てながら、死体のようなマネキンを引きずるケンスケ。
彼の丸く刈り上げられた頭を背後から見つめながら、蕎麦先生はうめくように訊いた。
「何を、しているんだ……君は」
「『教えてくれ』と言っただろ。だから教えてやってる」
問いかけに応じるケンスケの声は、生きた人間のようにはっきりと明瞭なものだった。
だが彼は、蕎麦先生の位置からけっして顔が見えないように、常に俯いている。
脇から覗き込もうとしたり、正面に回ろうとすると、無言で足を速め、拒絶した。
蕎麦先生はそれと知れると何度も顔を見ようとはせず、おとなしく彼の背後について、
長い廊下を共に歩く事にした。
……エントランスホールや、地下通路とは違い、今歩いている廊下には、見覚えが無い。
日光を充分に取り入れられる窓がいくつも在る廊下など、蕎麦先生の記憶のどこにも無い光景だった。
「これは、幻覚?ケンスケ。君は幻影か、それとも心霊の類なのか?」
「明確な答えは無い。所詮狂人が作った世界だから」
「作った?」
「俺や君が作った世界だ。死んだ人間が生きられる世界だ。俺が企み、君が望んだ世界だ」
廊下の先は、ケンスケの後姿で見えない。
長身の蕎麦先生が視界を塞がれるほど、未成年のケンスケは背の高い男だっただろうか。
思い出すまでも無く、蕎麦先生は自分の声が高くなっている事を悟り、
自分の白く、小さな子供の手を見た。
死人がうろつき、怪奇がはびこる病院の中で、既にまともな世界の法則は失せているらしい。
蕎麦先生の姿はこの施設に居た当時の、白いパジャマを着た子供の姿に戻っていた。
俯いたケンスケが、マネキンを引きずる音に交えて、言葉を続ける。
「全ての物語は繋がっている。俺達『五人』が全ての元凶だ。
そして、五人の中で君だけが生き延びた。あの女が、君を引き取ったからだ」
「お母さんの事か。僕の養母が……僕を、この病院から出してくれた」
「あの女が、何故君を引き取ったか分かるまい。
同情や、愛情じゃない。当時はあの女に、そんな感情は無かった」
どういう意味だ。
延々と廊下を歩き続ける二人を、窓から差す日光が温かく照らし出す。
一瞬、吹き込んだ強い風が、どこかから何かが焼ける臭いを運んで来た。
ケンスケが少し間を置いてから、ぐるぐると喉を鳴らして話し出した。
「俺達はこの場所で人生を終えた。ちょっとばかし、他の人間より心を病んでたってだけで、
心理実験のモルモットとして死ぬまで閉じ込められた。
俺やキヨミがどんな生活を送っていたか、思い出したろう。コーイチがどんな苦痛に悶えていたか、思い出したろう。
カオリの末路も……」
「『カオリさんは暗闇』。彼女の暗闇とは何だ?」
「そのままの意味だ。明かりの無い真っ暗闇の中で、孤独な人間の正気は数十時間で崩壊するとされていた。
……カオリは階段を上れない。だから階段を使わなければ移動できない階に暗闇を作って、カオリを放り込み、
極限状態で障害を克服出来るか、精神的苦痛に押されて階段を上ることが出来るかを実験したのさ」
『治療訓練』だよ。
ケンスケがくつくつと笑うと、引きずられていた女性型のマネキンが、頭を不自然に揺らしてがらがらと音を立てた。
「こういった実験は他の患者達にも行われたが、医者連中は俺達を一番重宝がってたよ。
大概の患者は数度の実験で廃人になったり、自殺しちまうんだが……
不思議な事に、俺達はどんなに酷い目に遭っても『壊れなかった』からな。
おかしくはなっても、実験に反応しなくなる事は無かった。正気を壊され、回復し、また壊され、回復する。
コーイチの足だって何度も萎えたり立ったりしたからな。貴重なモルモットだったさ」
「……」
「一つの実験が終わってから、三日は休みをもらえた。
俺達患者がお互いに関われたのは、その休みの間さ……思い出せるかい?
一緒に話したり、食事したりしたろう」
蕎麦先生はカオリさんの手をとり、庭を散歩したイメージを思い出す。
これで、白い地獄に幽閉されていた記憶と、他の患者と関わった記憶の矛盾は解消されたのだろうか。
……蕎麦先生は、幽閉と解放を繰り返されていた。
そして幽閉されていた時の記憶だけを、忘れずに覚えていた……
「白い部屋に、閉じ込められて……発狂する度に、回復期間を与えられて……それを繰り返していたのか……」
「白い部屋?何だ、それは」
ケンスケの肩から、何かが伸びたように見えた。
ケンスケに視界を阻まれたまま歩いていた蕎麦先生は、いつのまにか廊下の先にまでたどり着いていたらしい。
廊下の突き当たりに在った何かが、ケンスケの肩の向こうに見える。
それは引きずられているマネキンと、同じ色をしていた。
「蕎麦太郎。君の実験のテーマは『移植』だよ。
他人の心理的症状を、疾患を、人為的にコピーできるかどうか。
人間の心を、その歪みを、複製できるかどうか。それが、君のテーマだ」
ケンスケの言葉を聞いた瞬間、蕎麦先生の視界に火花が散り、世界に波紋のような衝撃が押し寄せた。
歪む視界、脳裏に、机に縛り付けられ悶え苦しむキヨミの傍で、怯えうずくまる自分の姿がよぎった。
膝をつき、犬のように這うコーイチおじさんに、後から医師に監視されながら続くイメージが。
暗闇の中、階段の前で泣き叫びながら立ち尽くすカオリさんの横で、同じように咆哮する、記憶が。
ケンスケと共に、物言わぬ硬い人形にしがみつき、かじりつく、自分の……
ケンスケが、初めて蕎麦先生の正面から脇へ退いた。
廊下の突き当たり、目の前全体に広がるガラスの壁。
目を焼くほどの太陽の光に照らされて、巨大な人のシルエットが、座っていた。
マネキン。
バラバラに分解されたマネキンが、何十何百と歪に組み合わさっている。
腕は腕、足は足のみのパーツをいくつもいくつも重ね、白いぶよぶよした紐で幾重にも縛り付け、連結されていた。
胴には乳房のあるトルソーが同じように組み重なり、その上の頭部は……
マネキンの頭ではない。
生身の人間の頭が、茸の群のように無数に血に濡れて鎮座していた。
トルソーの胴体に混じって垂れている肉体からは長い腸が引きずり出され、
マネキンのパーツを複雑に絡め繋ぎ合わせている。
ケンスケが、死体と人形で出来た巨人の背中に踏み上がり、
手にしていた二体のマネキンを、順に人間の頭部の群へ挿し入れた。
下半身を肉の中に埋没させたマネキン達は独りでに抱き合い、ごりごりと音を立てて互いの身を擦り始める。
こめかみを押さえ、自分を見つめる蕎麦先生に、ケンスケは初めて顔を上げ、声だけで笑った。
彼は自分の顔を剥ぎ取り、代わりに眼孔の空いていない、人形の顔を直接釘で皮に張り付けていた。
ケンスケの低い笑い声が、蕎麦先生に降る。
「一番辛いのは、忘れられる事さ!蕎麦太郎!
だから俺は、君に感謝するよ!俺の事をちゃんと覚えてくれていた!!」
「何の話だ?僕は……今の今まで、忘れていた。君の事も、僕自身の事も……」
「違う!君は目を背けていただけだ!!白い画用紙を白く塗るのは何のためだ!?
『神様が守ってくれるから』だろう!!!神様が!悪い奴らから守ってくれるんだ!!!!
思い出せ!蕎麦太郎!!俺達の『脳神』をッ!!!!」
死体と人形で出来た巨人が、何とも言えぬ耳障りな音を立て、蕎麦先生に手を伸ばした。
ぶちぶちと人体が引き千切れる音がする。蕎麦先生の顔に、どす黒い血飛沫が飛んでくる。
視界に弾ける火花が、よりいっそう強く、バチバチと閃光を放つ。
目の前に迫る巨大な手が、それを構成するマネキンの腕が、蟲の様にうぞうぞと蠢く。
蕎麦先生は、ケンスケの火のような哄笑を聞きながら、それに、呑まれた。
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