水の流れる音がする。

硬い木椅子に座った蕎麦先生の目の前で、やせ細った女性が地面に、如雨露で水を撒いている。

頭上には鉛色の雲、雨の気配に満ちた中庭には、他の誰の影も無い。

女性は如雨露の水を全て地面に撒き終わると、シワだらけの顔を蕎麦先生に向けて、無表情に訊いた。



「お夕飯、何が食べたい?」



二人の食事は完全に管理されているから、その質問には何の意味も無い。

呆けた顔で黙っている蕎麦先生の髪を、ぽたりと空から落ちた雫が叩いた。

女性はたった今自分が水を撒いた地面を雨から守るように、白いパジャマを脱いでその上にかぶせた。

遠くで雷が鳴っている。儀式めいた女性の仕草につられるように、蕎麦先生は立ち上がって、木椅子をパジャマの上に倒した。



女性は蕎麦先生の背後を見つめて、無表情のまま、優しい声で更に訊いた。



「何して遊ぼうか」


「これは幻覚?」



蕎麦先生の口に、女性の……カオリさんの骨のような人差し指が、押し付けられる。

さぁぁ、と雨の音が、二人に近づいてくる。



「あなた、言ったのよ。三日間のお休みが、ずっと続けばいいのにって。

 私やケンスケ君と、ずっと遊んでられたらいいのにって」



雨が、二人を包む。

刻一刻と激しさを増してゆく雨の中、目の前の女性の声は、決して雨音にかき消される事は無く。

蕎麦先生の耳に、一言一句重く注ぎ込まれて来る。



「だから、叶ったのよ。願いを叶えてもらったのよ。神様に」


「神様って、何?」


「始まりは、あの女の入れ知恵」



視界に激しく火花が散り、蕎麦先生の目が焼け付く。

思わず目を閉じた蕎麦先生が再び見た世界は、あの、忌まわしい白い部屋だった。

まばゆい光が頭上から降ってくる、真っ白な部屋。

床に横たわる蕎麦先生の頭を、誰かが撫でている。

耳に当たる、柔らかい太ももの感触。

膝枕をしている女の顔は、逆光で見えない。



その黒い顔が、蕎麦先生に、聞き覚えのある声で囁いていた。



「この地獄から出たければ、自分だけの『神』を作りなさい。

 人間は、大人達は、お前を助けてはくれません。

 苦しさから逃れたいとか、ゆっくり眠りたいとか、美味しいものを食べたいとか、

 お前が心から望んでいる事を、神様に毎日お願いしなさい」



女の手が、修道女の衣の奥から、何かを取り出した。

それは、白いクレヨン。白墨のような……骨のような、白いクレヨンだった。

横たわる蕎麦先生の手に、それがゆっくりと、握らされる。



「どんな姿でもいい。ただし、神様はいつも同じ姿でなければならない。

 白い場所に、白いクレヨンで、神様の姿を毎日描き続けなさい。

 お医者さん達に、けっして気付かれないように。見えない神様の絵を描きなさい。



 お前を救えるのは、神様だけ。お前の脳が作る……『脳神』だけ……」



再び火花が散り、柔らかい膝の感触が消えうせる。

代わりに出現したのは、硬い骨と皮だけの、カオリさんの膝。

彼女は蕎麦先生の頭を撫で、光り輝く天井を見上げながら、低く笑った。



「蕎麦太郎。私は、ケンスケ君は、キヨミちゃんは……そして多分、コーイチさんも。

 あなたが今聞いた話を、あなたの口から聞かされたのよ。

 自分の神様を、その姿を描いて、御願いする……」


「今のは、誰だ。僕にクレヨンを渡したのは、誰だ」


「あなたは画用紙に神様の絵を描いた。ケンスケ君はマネキンを壊して、床に並べて、神様の形を作った。

 キヨミちゃんは廊下のポスターを汚して、『目の無い』神様を作ったわ。

 コーイチさんは、天井のパイプにひっかけた包帯を、そのまま拝んでいたみたい。

 私は……」



蕎麦先生の脳裏に、虫かごの中に入ったネズミに話しかけるカオリさんの姿がフラッシュバックした。

そして頭上から落ちてきた植木鉢に頭を割られる寸前、ネズミの死体に腕を伸ばしたカオリさんが、


「神様!」


と、叫んでいた事を、思い出した。



世界がぐるぐる回る。五感が狂い、自分が今、どんな姿勢でいるのかも分からなくなる。

蕎麦先生の身体を、カオリさんの死体のような体が、抱きしめる。

彼女のひび割れた唇から、血の臭いと共に、ネズミの鳴くような音が、耳に落ちて来た。



「ねえ、蕎麦太郎。あの女のやらせた事は、何だったの?

 あなたを引き取った、養母が、私達にさせた事は……」


「信仰なんかじゃ、ない……」


「何なの?」


「………………『呪い』だ……」



白目を剥く蕎麦先生の頬を、カオリさんがけたたましく笑いながら舐めた。

声は笑っているのに、表情は無いまま。彼女は喉だけで笑っていた。

蕎麦先生は腐臭のする唾液を感じながら、空中を指で掻いた。

何かを求めるように、抉るように手を動かしながら、絶望に満ちた声で、続ける。



「藁で作った人形に、呪いを吐きながら釘を刺すのと同じだ……

 何らかの媒体に……人の、思念を……願いを、注ぎ続ける……

 その行為で……願いが……祈りが、実現すると思い込んでいるなら……

 その思念が、強ければ、強いほど…………

 我々が作った『神』は……具体的な、脅威と成り得る……」


「あの女はこんな事もしていたわ」



回転していた世界が突然静止し、二人の前に別の光景が現れる。

薄暗い病室で、塩を盛り、祈りを捧げる修道女。

ベッドの枕元には仏花が飾られ、壁際には精神病院の医師や職員達が、腕を組んで並んでいる。

その部屋は、蕎麦先生がかつて何度も訪れていた、カオリさんの部屋だ。

修道女は、部屋の真ん中で膝をつき、人々に背を向けた姿勢で、

死者に対する祈りを捧げている。

……そんな、風を、装って……

彼女は床に、何かをこすり付けていた。

何か、粉のようなものを、床板同士の僅かな隙間に、すり込んでいる……



「あれは、私の遺灰」



カオリさんが蕎麦先生の髪を食み、ほんの少し、恨めしそうに言った。



「私と、私の『神様』の遺灰」


「お母さんは何故こんな事を!?」



バシバシと音がして、視界が弾けた。












気がつけば、蕎麦先生は白い部屋に一人、倒れていた。

子供の姿ではない。この病院に来た時の、大人の 東城 蕎麦太郎 の姿で、床に頬をつけていた。

天井からの、眩しい光。

その光が蕎麦先生の目から落ちる、雫に反射した。



「俺達は、外に出たかったんだ」



どこからか、ケンスケの声がした。



「苦しみの無い世界に、行きたかった」



誰も居ない部屋の中を、キヨミの声が這う。



「でも、本当は……それ以上に」



カオリさんの声がした瞬間、蕎麦先生の目の前で、白い部屋の壁が、音も無く切れた。

左端から、壁が開いて行き……





その向こうに、赤く染まる世界が見えた。

黒い煙と、炎。人間の悲鳴……



燃える世界は、蕎麦先生の記憶の底にあった、精神病院の最上階だ。

ゆっくり、身を起こす。

床につけていた肩や腕が、ぎしぎしと軋む。



そうして立ち上がろうとした蕎麦先生の、目の前を、



ケンスケの無数の人形で出来た『脳神』が、

誰かの上半身を引きずりながら、通り過ぎて行った。






「……自由を、願う以上に……僕達は」




やつらを、憎んでいたんだ。





蕎麦先生は、血と肉片の飛び散る世界へ……精神病院の屋上へ……



エレベーターの中から、出て行った。
















 

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