閉鎖空間に一人の人間を放置すると、当然だが、時間の経過と共にその人間の精神は疲弊してゆく。
 
蕎麦先生の場合、白い四角い密室に閉じ込められ、白いベッドと白いパジャマ、白い画用紙と白いクレヨンだけを与えられた。
 
食事や排泄の機会も当然あったはずだが、蕎麦先生にはどうしても思い出せない。
 
覚えているのは、無音の白い部屋でたった一人で、永遠のような時間を過ごした事。
 
 
 
誰かに会いたくて硬い白い壁を叩いて回り(ドアは無かった気がする)
 
熱ささえ感じる強い照明に悲鳴を上げ(夜の存在を知ったのは、ずっと後の事だ)
 
溢れる白色に目と精神を苛まれ、壁や天井が迫ってくる幻影に恐怖し、
 
自分の肌を必死に見つめ、目を瞑り、眠る事も出来ずに、やがて、白い床を隠すために、髪を引き千切り始めた。
 
白い床に千切った髪の毛を落とし、黒い線を走らせる。気付いたように蕎麦先生は髪を渾身の力でむしり取り、ばらまく。
 
黒い髪の毛が、ぶちぶちと音を立てて白い世界に広がり、光り輝く地獄に色を添えた。
 
狂喜する蕎麦先生が何度も何度も何度も髪の毛をむしっていると、不意にめりめりと音がして、髪以外のものが指に絡まる。
 
 
 
赤い、生々しい頭皮。指と、頬に、温かい血が滴る。
 
それを、今度は白い壁に、こすり付ける。血の赤が、ずずー……と、髪の黒よりも鮮やかに、白を切り裂いた。
 
頬を壁にこすりつける。頭皮が剥がれた傷口で、ぐりぐりと白い地獄を赤に塗り替える。
 
 
 
そうだ、黒と赤が、蕎麦先生の一番好きな色だ。
 
それらが床と壁を、まばらに這い回った後、蕎麦先生は初めて安心して、ベッドの下で眠る事が出来たのだ。
 
 
 
「……そして目が覚めると、髪と血の跡は奇麗に掃除されている。希望の黒と赤が、何者かに奪われていた。
 
 幼い私の絶望が、憎悪が、分かるか?」
 
 
「…………」
 
 
 
土産のドンペリをコップに注ぐ蕎麦先生に、若い修道女の格好をした女は絶句したようだった。
 
草木も眠る丑三つ時。閑静な住宅街に突如十字架を掲げる小さな宗教施設。
 
細長い礼拝堂を中心にT字型に建てられており、礼拝堂の左側に管理人室、右側に懺悔室が設置されている。
 
蕎麦先生と修道女はわざわざ懺悔室に篭り、懺悔をする者の顔を隠すためのカーテンを開け、薄暗い中話をしていたのだ。
 
リラックマの顔が張り付いたコップに酒を注ぐと、蕎麦先生が無造作に修道女に差し出す。
 
修道女はそのコップに両手の指を当て、そのまま受け取らずに蕎麦先生の手を包み込んだ。
 
骨ばった手を労わるように触る女の指に、蕎麦先生がじろりと睨みを返す。
 
 
 
「同情して欲しくて話したんじゃない」
 
 
「分かっています。欠落した記憶を埋めたいのでしょう?
 
 亡くなった先代……あなたのお養母様が仰っていました。
 
 あなたは恐ろしい出来事のために、子供の頃の記憶を殆ど失っている、と」
 
 
 
ドンペリを注いだコップを二人で支えたまま、薄闇の中声を飛ばし合う。
 
……蕎麦先生には血の繋がった身内は存在しない。物心ついた時、彼は一人だった。
 
彼を引き取り、精神病院から強引に退院させてくれた養母だけが唯一家族と言える存在だったが、
 
彼女も数年前に心臓の病でこの世を去ってしまった。
 
この宗教施設の持ち主であり、真っ当な布教活動よりもいわゆる『悪魔祓い』を生業とし、
 
心霊や呪い、祟り、果ては妖怪の跋扈まで節操無く真顔で語り高額の報酬でもってその退治調伏を請け負う、
 
蕎麦先生が心霊研究者などという胡散臭い道を選ぶきっかけとなった、胡散臭い、大事な母親だった。
 
そしてその跡を継ぎ、蕎麦先生の代わりにこの場所を守っているのが、目の前の修道女なのだ。
 
 
修道女は白い形のよい頬をお互いの指に寄せ、痛みに耐えるような表情で目を閉じた。
 
 
 
「……当時私は生まれてもいませんでしたが……お養母様の話では、あなたは、『人の作った地獄』に封じられていたのだと。
 
 それは、蕎麦太郎さん……私達が日頃から相手にしている『怪異』とは、全く異質のものだと……」
 
 
「当然だ。呪い、祟り、心霊怪奇現象、我々が人に乞われ立ち向かうそれは私の過去とは関係ない。
 
 ……今日はそんな話をしに来たんじゃないんだ、エリカさん」
 
 
「あなたが入れられていたのは、確かに精神病院です」
 
 
 
ようやくコップを受け取りながら、修道女ことエリカは顔を背け、細く目を開いた。
 
蕎麦先生は黙って自分のコップにもドンペリを注ぎ、同じように相手から視線を外す。
 
足を組み、顎に指を当てながら、言葉の続きを待った。
 
 
 
「ですが……当時は精神病に対する認識が今ほど完成してなくて……法律も、世間も、専門家も、
 
 精神病者を正しく扱っていなかったそうです。それこそ、刑務所以下の環境の精神病院も、在った……
 
 今でも刑務所や、企業、学校など、社会からある程度隔離された閉鎖環境では、世間一般の倫理に反する事が行われています。
 
 ……あなたが恐ろしい禁固に遭っていたように、許されてはならない事が……」
 
 
「成る程。私の処遇は不当なものだったわけだ。
 
 ……とは言え、仮に私が非常に危険な精神状態にあり、一般人や職員に危害を加える存在だったとしたら……
 
 世間一般の倫理としては、あの禁固も妥当なものだったんじゃないか?その点はどうだ?」
 
 
 
蕎麦先生の言葉に目を伏せ、エリカは太ももの上で両手の人差し指を擦り合わせながら、少し間を置いて首を振った。
 
 
 
「妥当では、ありません。あの精神病院は、いわゆる精神病患者を治療するための施設ではありませんでした。
 
 つまり、家族・保護者が持て余した……『不要』と判断した人間を、ただ放り込むためだけの場所。
 
 露骨な言い方をすると……人間を捨てる場所として、稼動していました。職員も、患者の家族も……そのつもりで……」
 
 
「……」
 
 
「それに……蕎麦太郎さん。あなたを見ていると、私にはこう思えるんです。
 
 幼い子供だったあなたが精神病院に長年閉じ込められ、その後縁あってお養母様に引き取られた。
 
 ……でも、今のあなたは立派な紳士です。他の人々と同じように社会生活を営み、人生を歩いています。
 
 お養母様の努力があったとしても……失礼ですけど、『正常に育ち過ぎている』ように、見えます」
 
 
 
言ってから、エリカはハッとしたように細い指を口に当て、深々と頭を下げた。
 
失礼ですけど、とワンクッション置いたものの、本当に失礼な事を言ったと思ったからだが、
 
蕎麦先生の方は眉一つ動かす事も無く、下げられたエリカのヴェールに包まれた頭を、犬のそれにするように、撫でている。
 
 
 
「……私は、元々『正常』だったわけだ」
 
 
「…………幼い子供の精神が、正常か異常かなんてそうそう分からないと思うんです……
 
 少なくとも重篤な状況ではなかったのでは……と……それが、長年の禁固で悪化していただけなのでは……」
 
 
「中々にショックな話だが、少しテンポが悪い。話の中核へ進もうじゃないか、同士。
 
 その精神病院が病院の名を冠した『人間捨て場』だった事は分かった……それで?他に情報はないのかね」
 
 
「あの……手を、離して頂けますか?」
 
 
 
パッとヴェールを解放すると、エリカが少し赤い顔をそろそろと上げた。
 
真顔で腕を組む蕎麦先生に、薄い唇がふっ、と息を吐いてから、答える。
 
 
 
「精神病院の職員達……ですが……学術的な、というより、個人的な興味からでしょうが、
 
 患者に対して、実験的な試みをしていた事が、判明しています。正にあなたに対する、禁固のような」
 
 
「実験的……?」
 
 
「病室の異常に強い照明の理由は、照明の脇に監視カメラがついていたからです」
 
 
 
断言するエリカに、初めて蕎麦先生の眉間にしわが刻まれた。
 
びくりと肩を震わせるエリカを、蕎麦先生が軽く頷く事で、続けろと促す。
 
エリカはそれでも両者の間にあるカーテンで顔を半分隠しながら、おどおどした様子で言った。
 
 
 
「あなたが触れようとなさらなかったので、お養母様も黙っておられたようですが……
 
 あなたの入っていた精神病院は、患者に対する非人道的な行為の露見によって既に閉鎖されています。
 
 情報をリークしたのは、精神病院の患者が亡くなるたびに病室のお清めに呼ばれていた、お養母様です。
 
 ただ……その時に何故あなただけを引き取ったのかは、聞かされていません」
 
 
「内情が暴露されたのか?何をされていたんだ、私は?職員達はどうなった?」
 
 
「患者達は、それぞれテーマをあてがわれて心理的な実験をされていたそうです。
 
 たとえば健康な足に包帯を巻きつけ、大勢で毎日『お前は足腰が立たないんだ』と言い続けると、本当に歩けなくなるかとか。
 
 マネキンを沢山置いた部屋に一人きりで閉じ込めたら、どのくらいの期間でマネキンに話しかけたり、抱きついたりするかとか。
 
 机に手足を縛りつけたまま何日放置すれば人間の精神は崩壊するかとか。そういう実験です。
 
 いずれの場合も部屋の天井には監視カメラと、逆光でそれを隠すための強い照明がつけられていました」
 
 
 
蕎麦先生の表情が険しくなるにつれ、エリカの顔もススス、とカーテンの裏に引っ込んでいく。
 
しまいには完全にカーテンを閉めてしまってから、蚊の鳴くような声でエリカは続ける。
 
 
 
「あなたの場合も、恐らく何かしらの心理的効果を狙った実験だったのでしょうが……よくは分かりません。
 
 とにかくそういった事が警察に知れて、強制捜査が行われました。
 
 その時に職員達の大半は、警察の捜査を拒んで……最後には病院の屋上から、身を投げて死んだそうですよ」
 
 
「自殺するぐらいなら下らん事をしなければいいんだ!ふざけやがってッ!!」
 
 
 
ドン!と蕎麦先生が壁を叩くと、カーテンの向こうでエリカが椅子から転げ落ちる音が聞こえた。
 
暫く壁に拳を当てたまま、ふー、ふー、と呼吸を繰り返す。
 
何かを睨め上げるように目を吊り上げた蕎麦先生が、やがて気の毒なエリカに声だけを投げた。
 
 
 
「……白い部屋をどうしても改善できないと知った私は、与えられた白いクレヨンで絵を描いたよ。
 
 白い部屋、白い画用紙じゃ、何一つ描き出せないクレヨンで…………」
 
 
「……」
 
 
「友達が欲しかった。動物でもいい。植物でも。花を描いたし、犬も猫も描いた。象や馬や、リスも……
 
 でも、何も見えやしないんだ。白いクレヨンじゃ、何も生み出せない。でも描くんだ。見えなくても、きっとそこに描いてあるはずだから。
 
 生き物の絵が、他の生命が。それが、白い地獄で……一人だけの世界で、きっと、唯一、傍に居てくれる、生き物のカタチだと思ったから」
 
 
「……」
 
 
「…………そんな私の行動が……今も、治っていない習性が……『発症』している、子供達がいる」
 
 
 
蕎麦先生の目から、音も無く雫が落ちた。
 
いつの間にか立ち上がったエリカが、いつの間にかカーテンを開けて、こちらを見ていた。
 
妙な息を吐き、顔を覆う蕎麦先生に、エリカが手を出さずに、声だけを返す。
 
 
 
「当時の資料を、探してみます……何か分かったら、あなたに電話を……」
 
「……頼む……」
 
「蕎麦太郎さん」
 
 
 
唇を噛んだエリカが、顔を覆ったままの蕎麦先生の前に、胸に下げていたロザリオを取り、差し出した。
 
銀色のロザリオを、蕎麦先生の雫が叩く。
 
 
    ・・・・・
「私は、見えますよ」
 
「……」
 
「目に見える、あなたの、友達ですよ……」
 
 
 
 
 


 

前のページへ 目次 次のページへ→

inserted by FC2 system