牛袋 美耶子を知らない人々のために断っておくべき事がある。
 
蕎麦先生の仕事上の相棒である女探偵、牛袋 美耶子は、四人もの人間を手にかけた殺人犯だ。
 
殺人者、特に未成年のそれに異常に甘い日本の司法は、彼女を少年院に数年幽閉するだけで社会に帰してしまった。
 
結果美耶子は己の前科に一切負い目を感じず、何の更生もする事無く自由を謳歌している。
 
被害者の墓前に立っても「ザマーミロ、糞野郎」と中指を立てるだろうし、遺族に会っても同じ事をするに違いない。
 
殺人には美耶子なりの動機と正義が在ったが、それ以上に美耶子の悪意は強かった。
 
牛袋 美耶子と言う女は、そんな、擁護のしようも無い悪党なのだ。
 
 
 
「……ヴァン・ド・サヴォア・キュヴェ・レゼルヴ・ブリュット(エドモン・ジャカン)白の発泡性・サヴォア地方……」
 
 
 
擁護のしようも無い悪党、美耶子の目の前で、謎の呪文と共にソムリエ風の男がワインをグラスに注いだ。
 
午前7時半、朝陽の差し込むレストランのホールには、美耶子以外の客は居ない。
 
居並ぶ白いテーブルにアンティーク。いかにも気取ったビストロですと言わんばかりの店内には、聞き慣れない外国のポップスが流れている。
 
ニコニコと満面の笑みを浮かべるソムリエ風の男が、Tシャツとジーンズ姿の美耶子にウインクを飛ばしてきた。
 
美耶子の不機嫌度が一気に跳ね上がり、狐のように細められた目に付いた長いまつ毛が、びくびくと痙攣し出した。
 
 
 
「さあさあ牛袋先生、お待たせ致しました。こちら海老のフリットをパパイヤの外皮に詰めた物でして!」
 
 
 
店の奥からでっぷりと太ったエプロン姿の男が、料理の皿を直接手に乗せて出てきた。
 
頬杖をつく美耶子の目の前に、フランス料理らしき物が置かれる。
 
ソムリエ風の男、フランス料理らしき物、と曖昧な表現をするのは、それらに詳しくない美耶子の目をもってしても、
 
明らかな違和感を感じざるを得ないからだ。
 
たとえば今、ソムリエ風の男とエプロン姿の男の笑顔に挟まれながら見下ろす料理からは、はっきりと醤油マヨネーズの香りが立ち上っている。
 
しかも添えられているのはナイフとフォークではなく、割り箸だ。
 
じっとりと湿った視線を送る美耶子に、エプロン姿の男は自信満々に胸を張る。
 
 
 
「私はフランス料理の店を出すのが若い頃の夢だったんですが、長年の修行で開いた『悟り』がありましてね!
 
 つまり『御客様本位』のスタイルです!お客様に一番合った調理法で料理を作り、一番食べやすい方法で食べて頂く!
 
 日本人なら醤油マヨでしょう!日本人なら箸でしょう!『本場のフランスではこうなんだ!』なんて傲慢な姿勢は許せません!
 
 私の店で出すのは日本人用のフランス料理、即ち『和製フレンチ』なのです!」
 
 
 
わっはっは!と高笑いするエプロン姿の男……この店のオーナーを、横のソムリエ風の男が白々しい拍手で讃える。
 
正直、彼らの信念などどうでもいいし目の前のエビマヨもどきも食べたくない。
 
注がれたワインも美味くないのは一目瞭然だ。何故か?
 
 
 
美耶子は頬杖をついたまま、最早異臭と言って良いほど強いオーデコロンの臭いを放つ、ソムリエ風の男の頭から目を逸らした。
 
そうなのだ。総ての元凶はこいつの臭い頭だ。美耶子は髪にホホバ油をべったり付ける心霊学者を知っているが、
 
ちゃんと精製されたホホバ油は無臭で、料理やワインの風味を損なう事は無い。
 
料理と無関係の職に就く心霊学者が無臭の油を髪に塗り、レストランで働くソムリエが激臭のするオーデコロンを髪に吹き付ける。
 
何と馬鹿馬鹿しい話だろう!美耶子はだからプロ意識の欠片も無い目の前の男を『ソムリエ風の男』と認識しているのだ!
 
プロのソムリエはこんな失態はやらかさない!だいたいワインは香りを愉しむものだろうに!
 
特別扱いかVIP待遇か知らないが常に臭い男が隣に居て給仕をするせいで、料理もワインも全部オーデコロン味だ!
 
 
 
(こいつは私にフランス料理を喰わせたいのか!?オーデコロンを喰らわせたいのか!!どっちだ畜生ッ!!!)
 
 
 
明らかに不機嫌な美耶子の様子にようやく気付いたのか、太ったオーナーが咳払いをしながら対面の席に座り、美耶子の横顔に微笑みかける。
 
美耶子は誰もが振り向くような美人ではなかったが、殺人に手を染めるまでは中々に良い思いをして来た。
 
艶のある黒髪を伸ばしていた頃は男のみならず女友達まで指を差し入れたがったし、スポーツで柔らかく筋肉の盛り上がった肢体は、
 
当時理想とされていたガリガリのモデル体型より、実際評判が良かった。
 
ちょっと笑って見せれば、猫のような顔に有象無象がニヤケ顔を返した。
 
普通に生きていれば敵なんか作らなかったし、黙っていても周りが友達になりたがる。
 
満員電車どころかガラガラに空いた車両でさえ痴漢に遭ったし、塾帰りのコンビニで背の高い男達に囲まれた事もある。
 
担任の教師と性的な関係になり、破局し、殺した。
 
そんな経歴を構成する程度に、美耶子の横顔には女としての魔力が宿っている。
 
 
その魔力を、完全に無視して、オーナーが禿げ上がった頭頂部を美耶子に突きつけてきた。
 
 
 
「先生!今回の事はくれぐれも、くれぐれも宜しく御願い致します!どうか内密に、娘を救ってやって下さい!」
 
「……はぁ。分かりました。ベストを尽くします」
 
 
 
実にやる気の無い声で答える美耶子の手を、今正に頬杖をついていた左手を、オーナーは嬉々として取り、握り締める。
 
突然支えの無くなった顎をテーブルに叩きつける美耶子に、オーナーは感極まったようにしっかりと目を閉じて告白する。
 
 
 
「恥ずかしながら妻とは別居しておりまして、離婚も時間の問題です。娘の親権も取られそうなんですが……
 
 それでも私は父親として、娘に出来る限りの事はしていくつもりだったんです!影ながら!!」
 
 
「〜〜……!」
 
 
 
顎の痛みに顔をしかめる美耶子にお構いなしに、オーナーはその手を握って離さない。
 
臭いソムリエ野郎は白々しくハンカチを取り出し、目を拭う素振りを繰り返している。
 
 
 
「でも、よもや、離婚調停も済んでいない内に娘にあんな災難が降りかかるなんて……
 
 見ましたか先生!娘のあの、あの、変わり果てた姿……!
 
 返事もせずに画用紙を白く塗り続けるなんて、一体どんな病気ですかッ!?」
 
 
「いや、私に言われても……」
 
 
「精神科の医者の話では、強迫観念とか諸々でああいう無意味な行動が出る事はあるそうです。
 
 しかし……娘と一緒に下校していた友達5人が一斉に発症するなんて、絶対におかしいッ!!」
 
 
 
分かったから、手を離せ。
 
白い指をぎゅうぎゅう握り締めてくるデカい手を解きにかかる、美耶子の右手を、
 
オーナーはさらに上からからめとり、押さえ込んだ。
 
美耶子の両手を思いっきり締め上げながらオーナーはまたもやハゲ頭を深々と下げ、懇願するように両者の手の上に擦り付ける。
 
 
 
「牛袋先生は『こういう事件』の専門家とお聞きしました。いや、他の専門家が匙を投げた案件を、独自に調査し解決なさると言う……
 
 お願いします先生!精神科医も警察もまるでやる気が無いんです!連中、余りにも意味不明な事件は後回しの上に『なあなあ』の対処をするようで……
 
 先生だけが頼りです!私の願いをお聞き届け下さったなら、正規の依頼料の他にこのビストロの永久半額パスを差し上げましょうッ!!」
 
 
 
最後の台詞を聞いた瞬間、テーブルの下で美耶子の白くスラッとした足が唸りを上げ、オーナーの股間に吸い込まれていった。
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
正午。口の中が火傷するほど熱いコーヒーを机に置き、蕎麦先生はメモ用紙をボールペンでつんつん突付いていた。
 
『友人資源図』と題されたメモ用紙には、東城 蕎麦太郎の名を中心に、昨日今日顔を合わせた人々の名前と肩書きが散乱し、線で繋がれている。
 
 
 
三神 照明、大学教員。
 
佐倉 静江、資産家婦人。
 
高倉 エリカ、浄霊師。
 
 
 
……以上。
 
蕎麦先生は一睡もしていない、くまの浮いた目を天井に向け、小さく二度、低く唸った。
 
やがて視線をメモ用紙に戻すと、薄い点線をさらに自分の名前から伸ばし、小さな字で更に二名、名前を連ねる。
 
 
 
シゲ、チンピラ。
 
ナナコ、不良。
 
 
 
どこの馬の骨とも知れぬ連中の名を無理やり友人資源図に加えると、蕎麦先生はボールペンを投げ出して頭を抱えた。
 
何十年も生きてきて、友人と呼べる人間が片手の指で数えられる程度しか居ない。
 
普段なら別段苦にも思わぬ事だが、今、蕎麦先生は明らかに精神的に参っていた。
 
一番触れたくない自分の過去に向き合い、自分自身を見つめ直す。
 
それがこんなにも辛い事だとは思わなかった。
 
 
 
「何と情けない姿だ。蕎麦太郎。まるで弱った老人のようじゃないか」
 
 
 
ため息混じりに呟いた蕎麦先生の耳元を、何か細いものが横切り、衣擦れの音を立てた。
 
頭を抱えたまま睨め上げると、白い女の指がボールペンを握り、メモ用紙に馬鹿でかく何かを書き込んでいた。
 
 
 
牛袋 美耶子、超一級名探偵!
 
 
 
「……今は冗談を許す余裕が無いんだが」
 
「すっげー勝手な事言ってるって分かってます?先生、一体どうやって入ったんですかッ!」
 
 
 
顔を上げる蕎麦先生の背後で、紙袋を提げた美耶子が腕を組み、仁王立ちする。
 
蕎麦先生が座布団に座りメモ用紙に向かっていたそこは、三畳一間の美耶子の事務所だった。
 
今時珍しい程狭いアパートの一室は、二人の大人が入ればもう限界で、『満員』の札を玄関扉にかけて、新たな入室者を防ぎたくなる衝動に駆られる。
 
おまけに美耶子は愚かにも業務用の冷蔵庫とプラズマテレビを壁側に設置しているので、探偵事務所としての機能は殆ど消滅していると言っても良かった。
 
依頼人の来訪があると、中に二人居た場合、一人が客の代わりに外に出て空間を空けないといけない。そんな体たらくだ。
 
 
 
蕎麦先生は熱いコーヒーにふーふー息を吹きかけながら、ズボンのポケットから事務所の鍵を取り出し、美耶子に投げ寄越した。
 
 
 
「玄関の周囲に隠した鍵は、必ず発見される運命にある。ずぼらをかましてないで財布にでも入れておく事だな」
 
「嘘ッ!?表札の裏にガムテープで貼り付けといたのに……!」
 
 
 
愕然とする美耶子の前でコーヒーを啜る蕎麦先生が、彼女が提げている紙袋に視線をやり、「何だそれ」と目で問う。
 
美耶子は口をへの字に尖らせ、鍵を握り締めたままそれを机に上にドン!と乱暴に置いた。
 
中身を漁ると、『ジャパンオリジナル・ヤマシタ・エディション』と言う全く聞き覚えの無い銘柄のワインと、
 
昨夜蕎麦先生が食べた物と全く同じキャビアの缶詰が出てきた。
 
 
 
「……何コレ。いや、ホント何コレ」
 
「依頼が入ったんですよ、で、その依頼主が激励の意味でくれたんです。おフランス気触れの勘違いビストロのオーナーですって!」
 
 
 
べーっ!と舌を出しながら隣に座る美耶子を、蕎麦先生は何か気の毒な人を見るような目で眺める。
 
……そういえば、この女。何で今日は男物のオーデコロンなんかつけてんだろう?
 
漂ってくる不快な臭いに座布団を引きずり、美耶子から距離をとろうとする蕎麦先生。
 
そんな彼に無慈悲に顔を近づけながら、美耶子は人差し指を立て、眉を寄せた暗い笑顔で言った。
 
 
 
「依頼の方も物凄く珍妙ですよ。正に怪奇現象ってヤツです。何を調べてどう解決すればいいのか見当もつきません」
 
 
「じゃあ何で受けたんだよ……えぇい、近づくなッ!臭い奴めッ!!」
 
 
「私のせいじゃありませんよ!他人のオーデコロンの臭いが移ったんです!
 
 それに依頼を受けたのは先生のせいですよッ!何か……先生に関係ありそうだったから!」
 
 
 
美耶子がそう言った瞬間、蕎麦先生の顔から表情が消えた。
 
一瞬の間の後、美耶子はフン!と鼻を鳴らし、部屋の奥まで行って唯一の窓を開ける。
 
地上三階。吹き込んでくる風は涼しく、僅かに近所の川原の臭いを運んでくる。
 
窓枠に両手をかけ、尻を向けて外を眺めていた美耶子が口を開く前に、
 
蕎麦先生がコーヒーのカップを机に置きながらに、ため息をついた。
 
 
 
「……何かの間違いと言うか……実は私と何の関係も無い事件であれば、いいと思っていたのにな」
 
 
 
えっ、と振り向く美耶子から、蕎麦先生は珍しく目を逸らした。
 
その様子に美耶子は、初めて、目の前の男の様子がおかしい事に気がつく。
 
不敵で不遜、どんな怪異に出合っても真正面から受けて立つ、まるで鉄の心臓を持っているような、そんな男。
 
それが今は、何故か、随分頼りなく見える。
 
美耶子は嫌な予感がして、目を逸らした蕎麦先生に膝立ちのまま近づき、その顔を覗き込んだ。
 
痩せた白い顔は、普段以上に病的に沈んで見える。そしてやはり、美耶子と視線を合わせようとしない。
 
 
 
「どうしたんですか、先生……」
 
 
「私と同じ『クセ』が出た子供の話だろう?……画用紙に白いクレヨンを塗りたくるのは、別に私の専売特許ってわけじゃないが。
 
 こう何人も立て続けに出てくると、やはり良い心地はしないものだ」
 
 
 
自分を見つめてくる美耶子の前で、とうとう蕎麦先生は自分のトランクを開け、画用紙と白いクレヨンを取り出してしまった。
 
唾を飲み込む美耶子に背を向けて、蕎麦先生は静かに、がりがりと、画用紙を擦り始める。
 
その背が、また美耶子には、いつもより小さく見えるのだ。
 
 
 
「この行為は、私が私の人生を生き抜くために始めた事だ。自分の精神を、狂気から守るためにな。
 
 それが、突然不特定多数の子供に同時に感染した。因果を探るのは難しい、何故、こんな事が起きた?
 
 子供達に話を聞く事はできず、とにかく情報不足だ。ただ一つのヒントは……
 
 正気を失う前の子供達に、最初に画用紙とクレヨンを渡した、何者かの存在だ」
 
 
 
美耶子が身を乗り出し、蕎麦先生の話に息を殺す。
 
クレヨンの欠片を飛ばしながら、蕎麦先生はクッ、と微かに喉を鳴らした。
 
 
 
「人間?心霊?そいつの正体を突き止めれば事態は解決するのか?正に怪奇現象、怪奇事件だ。
 
 ……そもそも本当に私自身と関係しているのかすら分からんが……私はこれから、自分の過去を掘り起こしに行く。
 
 私のこの異常な行為が初めて発生した、地獄に赴く……ついて来て、くれるね?」
 
 
 
がりがりと言う音が一層大きくなり、蕎麦先生の充血した目が、ようやく美耶子に向けられた。
 
蕎麦先生の方から美耶子に、事件の調査について来てくれ、と頼むのは、とても珍しい事だった。
 
美耶子は彼の血の色をした視線に髪先を指で弄くりながら……勿論です、と。
 
誰にも聞き取れないような声で、呟いた。
 
 
 
 
 


 

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