「事態は結構深刻です。例の『白クレヨンガリガリ症候群』について色々調べてみたんですけど」

「おい、変な名前をつけるな。私の宿命に……」



狭苦しい美耶子の事務所を出た二人は、近所のホームセンターで思い思いの品を物色していた。

これから向かうのは蕎麦先生が幼少期を過ごした精神病院だが、場合によってはその場所には

様々な意味での『災厄』が待ち受けている可能性がある。



普段から心霊の類を相手にしている蕎麦先生に言わせれば、人が暮らし、強い負の感情を抱え続けた場所は、

それだけで悪いモノを引きつける『魔の領域』になるという。

よく入居者が自殺したマンションの部屋などを後から借りた人間が、立て続けに事故や事件に巻き込まれたりするのは、

そのような場所に染み付いた『人間の思念』が災厄を引き込んでいるからなのだという。

噂ではそういったワケありの物件の安全性を見極めるために、緊急に寝床を必要としている日雇い労働者や、

呪いや祟りの存在を比較的信じていない外国人の入居者を斡旋する業者まで存在するそうだ。

マンション側は彼らに割安の家賃を提示し、部屋の『毒見』をさせる。



文化の根底で心霊や神々の存在を肯定している日本人ならではの、『生け贄売買』だ。

そのような行為がまかり通る程度に、我々は土地に染み付いた、人間の思念を意識している……

美耶子はそんな蕎麦先生のウンチクを常日頃から聞かされていたので、誰に言われたわけでもないのに

ナイフだの木製バットだの、釘の箱だのを両手一杯に抱え込んでいた。



……それで心霊現象を叩き伏せるつもりなのか?

無言で釘バットの材料を見つめる蕎麦先生に、美耶子は先程遮られた台詞をもう一度最初から言い直す。



「例の症状が出た子供達について調べてみたんですけど、実は発症者は全国規模で出てるみたいなんです。

 総数は数十人程度ですけど、だいたい五年くらい前からポツポツ、あちこちの県で確認されてます」


「……それは、どこの情報だ?」


「ネットです。子供達の親が情報交換でホームページを立ち上げてるんですよ。

 やっぱりどの子も回復の見込みが無くて、掲示板とか凄く暗い雰囲気なんです。慰め合いって言うか、そんな感じで」



……という事は、最長五年間症状が回復していない子供が居るという事だ。

蕎麦先生に調査を依頼した佐倉氏の施設の子供達は、精神科医から一ヶ月で匙を投げられた。

よくよく考えれば、いくら未知の症例とは言え手を放すのが早すぎるような気がする。



精神科医達は勿論美耶子が見たホームページも調べただろうし、自分達の情報網で五年前から治療に取り組んでいた

同業者のレポートも手に入れたのかもしれない。

五年かかっても、回復していない。

その事実を知ったからこそ、精神科医達は早々に『何も分からない』と佐倉氏に告げたのではないか。

蕎麦先生は改めて『心霊学者』に児童を託した佐倉氏の心境を想い、ため息をついた。

そんな蕎麦先生の顔を、美耶子がまじまじと覗き込んで言う。



「正直、子供達と同じ『症状』を持ってる先生なら、一度くらいそのホームページを見た事があると思ってたんですけど……」


「人間、あまりに身近な事象はネットで検索なぞせんものだ。

 それと……そういう言い方はやめろ」



『症状』の言葉に気を悪くした先生は、美耶子の顔を手で押しのけてレジに歩いて行く。

美耶子が慌ててその背を追い、鼻を鳴らしながらわざとらしい笑顔を作って言った。



「ね、先生。それで先生の居た精神病院ってどこにあるんですか?この近く?遠く?」


「電車に乗り二時間。港から船で一時間。それで現地の島に着く」


「島!?海の向こうなんですか!?」



レジに商品の入ったかごを置き、目の前の男性店員に会釈しながら、蕎麦先生がああ、と声だけを返す。



「端から端まで、歩いて一時間とちょっとの小さな島だ。そこに病院だけが建っている……

 別に不思議な発想じゃない。精神病者は危険だから見えないところに隔離しろ……

 それが昔の世論だったのさ。だから、へんぴな所に病院を建てた」


「そうすれば簡単に脱走できないし……患者に酷い事をしても、外に漏れない……?」



自分の商品を続いてレジに置きながら、美耶子がちら、と男性店員の方を見る。

彼の手はてきぱきとやるべき仕事をこなしていたが、明らかに聞き耳を立てている様子だった。

蕎麦先生は気にせず財布を取り出して、事前に二千円札を数枚指にはさんでおく。

そのままの姿勢で、蕎麦先生はすっと目を細め、やはり視線を向けずに声だけで美耶子に命じた。



「今日はもう遅い、駅前のホテルに泊まって、明日の朝出発しよう」

「『普通の』ホテルですよね!?」



胸をかばう美耶子に、一瞬ぴたっ、と動きを止める男性店員。

蕎麦先生が手にしていた二千円札をぴしゃっと美耶子の鼻面に押し付け、そのまま出口に歩いて行く。



「駅から一番近いホテルにチェックインしておけ。私は用事がある……

 夕食は一人で食べてくれ」



ガー、と自動扉が開き、蕎麦先生が出て行き、閉まると同時に、

美耶子の顔に張り付いた二千円札が、木の葉のようにはらりと落ちた。
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
数時間後。自分の事務所よりわずかに広いホテルの一室で、美耶子は床にあぐらを掻いてテレビを見ていた。

二つのベッドの間で、真正面から眺めるテレビの中では、河上里美という女優が胸元と腹を丸く切り出した、

不思議なエプロンドレスを着て踊っている。



『……という大人気漫画を原作に、超豪華メンバーで送る今期最も注目されている新作ドラマ!

 主人公の外見をよりエロティックに進化させ、魅力的なオリジナルキャラクターを追加した超強化版!

 オープニングテーマを歌うのは国民的アイドルグループの……』


「あー、実写化するんだコレ……アニメやってる最中なのに」



夕食代わりのポテトチップスを頬張り、クズを床に落としながら、美耶子は白い腿を逆の足のかかとで掻く。

昼間の服装からズボンだけを脱ぎ、だらしなくパンツ一丁でくつろぐザマからは、女らしさの欠片も見当たらない。

テレビドラマの宣伝を聞き流し、床に置かれたサイダーを喉に流し込む。

窓の外はすっかり暗くなり、それでも駅前商店街の喧騒が、ガラス越しに室内に入り込んでくる。

指についたポテトチップのクズを舐めながら、美耶子は部屋の出口扉を、ちらと見遣った。



……用事って、何だったんだろう。

蕎麦先生が去り際に言った言葉を思い出し、ベッドにもたれかかる。



「なんか、よそよそしいんだよなぁ……いつもは、こうさぁ……もうちょっと、仲良いのに……」



でも、と美耶子は思う。蕎麦先生の、あのクセ……画用紙に見えないクレヨンの線を引き続けるあの行動……

それに言及する時、彼はいつも冷静じゃなかった。余裕の無さは、口調と態度にありありと浮き出ていた。

きっと、東城 蕎麦太郎という男にとって、あのクセの由来は触れられたくない傷口のようなものだったのだろう。

その傷口を、今回……彼はまともに直視しなければならなくなった。



美耶子はベッドにもたれたまま目を閉じ、肩を抱いた。

事件を調査する時、怪異に立ち向かう時、美耶子の前には蕎麦先生が居て、進むべき道を掻き分けてくれた。

彼の行動力に、美耶子は遅れまいと、追いすがるだけで良かった。



だが、今回は……ひょっとすると、美耶子が蕎麦先生の手を、引かなければならないような。

そんな気がした。






一方、ホームセンターで美耶子と別れた蕎麦先生は、その足で旧友である三神教授の住まいを訪ねていた。

彼はさえない大学教員のくせに高級マンションの最上階に住んでいて、蕎麦先生がインターホンを押すと

白いバスローブ姿で、デリヘル嬢を二人も伴って出てきたのだ。

呆れる蕎麦先生に何だかんだと言い訳をしながら、三神教授はデリヘル嬢を送り出し、部屋を掃除して、

今ようやく蕎麦先生を革張りのソファーに座らせ、酒とつまみを出したところだ。

高級マンションの一番家賃の高い部屋で出されたのは、コンビニのカップ酒と100円コロッケだった。



「いや、違うよ?お前を軽く見て安いもてなしをしてるんじゃないよ?

 金をかけるところと安く済ませるところが、俺の場合はっきりしてるってだけなんだ!」


「住む所と着る物、女には金をかける。それ以外は安く済ませる、か?

 安い食い物じゃ頭が回らんだろうが」



温め方を間違ってびしょびしょになったコロッケをつまみ、蕎麦先生が三神教授に初めて笑いかける。



「いい加減嫁を貰えよ。それで万事上手くいくだろうに」


「じゃあお前は嫁を貰ってるのか?違うだろ?独り者の方が気楽で良い……

 それより、どうなんだ、例の件は。何か進展があったか?」


「無いね。そっちは?」


「あったら訊かねぇよ!嫌になるぜ、子供達に働きかけても全く手ごたえが無い、てんで無反応だ」



蕎麦先生の対面のソファーに片膝を立てて座りながら、三神教授が天井を仰いで嘆く。

多分彼も、例の子供達の親が開いているホームページなぞ閲覧済みだろう。

完全に諦め顔でカップ酒をすする三神教授のハゲ頭が、照明を反射させてテカテカ光るのを暫く眺めてから、

蕎麦先生はソファーに深く身を沈ませて、わざと今思いついたように、言った。



「臨床心理学の専門家なら、人の心の動きなどは手に取るように分かるんだろうなぁ、君は……」


「馬鹿言え!人の心なんぞ分かってたまるか、超能力者じゃあるまいし!

 臨床心理学など所詮統計の積み重ねに過ぎん。どういう心の病には、どう対処すれば正解『っぽい』か……

 その程度の事を何万何億と試行錯誤して、ようやく成り立つ学問なんだぜ」


「ほう、その試行錯誤というのは、つまり、患者の心に対する……実験の繰り返しだな」



実験、という単語を聞いて、三神教授の顔から表情が消える。

蕎麦先生はコロッケを齧り、目を細く、細く、三日月のようになるまで細めてから、言葉を継ぐ。



「人間の心は、実に不思議な『力』を発揮する。思い込み・暗示で普段以上の能力を発揮したり、

 逆に身体の機能を喪失したりするそうじゃないか。心の動きが原因で、身体に様々な作用を及ぼす……

 正に、人の心は、解明不可能な、ブラックボックスだな」


「何が言いたい、東城……」


「個人の心の病を、別の人間に移す事は出来るか?」



いきなりまっすぐに視線を向けてくる蕎麦先生に、三神教授は唇を歪め、歯を僅かに軋ませた。

心の病、心理的な症状の、移植。

それを臨床心理学で行えるかと、蕎麦先生はつまり、そう訊いているのだ。

そんな問いは、言ってみれば、臨床心理学への冒涜だ。

臨床心理学は人の心を癒し、回復させるための学問だ。

心にダメージを与えるような事が、そもそも許されるわけがない……



しかし、三神教授は怒らなかった。

蕎麦先生が、自分のクセが大勢の子供達に伝染したかのような今回の事件の鍵を、

臨床心理学に求められないかと、そういった思惑で質問をしている。それが分かっていたからでもある。

だがそれ以上に、三神教授には蕎麦先生の問いをはねつけられない、理由があった。



「……心の病を、他人に移す……か」



両手の指を絡め、蕎麦先生と同じようにソファーに身を沈める。

三神教授の目がすぅ、と閉じられ、深い深い、人が絶命する瞬間の最後の吐息のようなため息が、空中に放たれた。



「可能だよ」



短い答えに、蕎麦先生の目が開く。みちみちと血の臭いを漂わせて、目玉が飛び出すかというほど、大きく開く。

三神教授は逆に目を閉じたまま、眉間に深くしわを刻み、唸るように言った。






「心理学を、悪用すればな……」







 

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