三神教授は蕎麦先生の血走った視線を十数秒ほど受けてから、ゆっくりと身を起こし、窓辺へと歩を進める。

巨大なガラス越しに人々の暮らしを、夜の明かりを見下ろしながら、その指がガラスを撫で、指紋を刻んだ。

背後の蕎麦先生に、厚い唇から太い声が飛ぶ。



「『サイコドラマ』……というのを、知ってるか?」


「……専門外だが、何かのドキュメンタリー番組で見た事はある。

 外国の刑務所なんかで行われる心理療法だったか?」


「あぁ。他にも学校教育現場、医療施設などでも用いられる。比較的手軽な集団心理療法だ。

 参加者がドラマ(劇)を演じる事で、問題のある行動を健全な行動に変える……

 ぶっちゃけると、単に『お芝居』をするだけの事なんだが、ただしサイコドラマには、筋書きが存在しない」



蕎麦先生が静かにソファーから立ち上がり、三神教授と並んで窓辺に立つ。

ズボンのポケットに両手を突っ込む蕎麦先生を見もせずに、三神教授は講釈を続ける。



「筋書きや台詞の無いドラマを、参加者に自由に演じさせるんだ。

 そうする事で彼らの自発性や、創造力を回復させる。

 分かりやすく言うとだな……たとえば俺とお前が、ケンカをしたとする」


「そんな経験は無いが」


「たとえばと言ったろ。とにかくケンカをしたんだ。激しいケンカだ。

 で、時間が経つと関係は修復されるんだが、暫く経つとまた些細な事でケンカになる。これを繰り返してるとしよう。

 そんな時にサイコドラマを行う。俺とお前、そして監督役と、ギャラリーを用意する。

 ドラマの舞台は前回のケンカの場面。演者は当然、俺とお前……」


「つまり、ケンカを再現するのか?」


「その通り。ただし配役は違う。俺がお前の役をやり、お前が俺の役をする。

 お互い相手のキャラクターを自分の想像で演じるんだ。ケンカしてる時、相手がどんな気持ちで罵っていたか。それを考える。

 それが終わったら、またキャラクターを交換する。本来の自分の役を演じるわけだが、

 その時には既に相手の立場と気持ちが、ある程度分かっている。

 自然に相手を思いやり、優しく理知的な対応が出来るわけだ。

 他にもギャラリーの誰かに役を交代してもらって、第三者として観劇する場合もある。

 それらを繰り返す事で自分達を主観的に、客観的に、全体的に知り、分析する事が出来る。

 最終的に何故自分達がケンカになるのか、ケンカを回避するにはどうすればよかったか、などが分かるわけだ」



何とも生ぬるい治療法だと、蕎麦先生はさめた視線を眼下の景色に投げた。

結局『他人の気持ちを察しましょう』というだけの事か。

蕎麦先生のあからさまに興味のなさそうな顔を横目に、三神教授が首をぽきぽき鳴らして、さらに続ける。



「サイコドラマは単純だが、しかし時に絶大な効果を発揮する。

 実際に問題行動や、逆に模範的な行動を演じてみる事で、行動自体を直接改善してしまえるからだ。

 だから広い分野で重宝されているわけで……」


「もういい、まるで講義を聴いているようだ。

 話を戻そう……つまり、そのサイコドラマを『悪用』する事で……」


「そう。人間の精神を壊す事も出来る」



二人の視線が、ようやくお互いの顔に向いた。

蕎麦先生は冷静な表情になっていたが、三神教授は脂汗を歪んだ眉に浮かべていた。

忌々しいトラウマを掘り起こすように、三神教授が両手の指をこめかみに当て、かきむしり始める。



「サイコドラマには、いくつかのルールがある。その最も重要なものが『説明責任』だ。

 つまり、参加者には必ず、これからサイコドラマを行うという事を告げなければならない……

 これを欠くと、取り返しのつかない事になる。最悪参加者の人格が破壊されるんだ」


「ドキュメンタリー番組では、そんな恐ろしいものだとは言ってなかったがね。

 まるで誰にでも出来ますよとばかりに……」


「誰にでも出来るさ!だから恐ろしいんだ!マスコミ如きに何が分かるッ!!」



声を張り上げる三神教授を、蕎麦先生は黙って見つめる。

こめかみの皮を引き裂く音が、二人きりの部屋に静かに響く。

三神教授は蕎麦先生に背を向け、やがて床に向かって声を落とした。



「サイコドラマは、他人の役を演じ……その心の動きを、代弁するものだ。

 つまり自分の肉体を別人の心に基づいて動かす。『他人になりきる』『自分を捨てる』……

 これは非常にリアルな『別人体験』だ。だから事前に、それが『お芝居』だと認識しておく。

 その認識こそが、他人の心と同化してしまわないための『命綱』なんだよ」


「……」


「別人として喋り、行動している時に……監督やギャラリーから、さらに様々な体験の『強化』が加えられる。

 言葉の裏にある感情、行動の動機などを推測され、言葉にされるんだ。

『あなたが今そんな酷い事を言ったのは、誰々が嫌いだからですか?』って感じにな。

 すると言われた方は『あぁ、そうなのかな』と変に納得しちまったりする。

 いわゆる『気付き』ってヤツだ。自分の心の中の、真実に気付く……」



これが、罠だ。

三神教授のこめかみが赤く腫れ始めたのを見て、蕎麦先生がようやくその手を掴んだ。

抵抗こそしなかったものの、三神教授は床を見つめたまま、指だけで空中を引っかき続けている。



「……俺がまだ学生だった頃な……大学の近所で、心理学の講習会が開かれた。

 全然大したモノじゃなくて、そこらの暇な一般人相手に教養を吹き込む程度の集まりだった。

 俺はゼミの教授の頼みで、そこの手伝いに行ったんだが……主催のカウンセラーが、とんでもねぇ悪党でな……

 例のサイコドラマを、俺に『だまし討ち』でやらせやがったんだ」


「だまし討ち……」


「サイコドラマを何の説明もなしに始めやがったのさ。

 実際には……日常生活のストレスや問題を解決するための、『ミラクルクエスチョン』って技法があるんだがよ。

 何か解決したい問題を抱えてる人間に

『明日目が覚めたとき、奇跡が起こって問題が総て解決していたら、あなたは先ずどんな事から奇跡が起こった事を知るでしょう?』

 って質問をするんだ。


 すると訊かれた方は一番些細な変化を、自分の頭で考えて口にするだろ?

 それが今、そいつが一番容易く『問題解決』のために実現できる事、と考える技法だ。

 問題の解決方法を、本人の手で編み出させる。それが『ミラクルクエスチョン(奇跡の問い)』なんだが……」



そこで一旦息継ぎをするように深呼吸をして、三神教授は床に膝を落とした。



「件のカウンセラーはこれを講習会の参加者・スタッフ全員に体験させたんだ。

 自分の解決したい問題をカウンセラーに告白し、一緒に解決方法を探ってもらう……

 ま、大勢の参加者の目の前でやるわけだから、本当のことを言いたくない者もいるだろうと、

 ヤツは『てきとうに作った架空の問題でもいい』と言ったんだ。あくまで技法の『体験』だからな」


「それで、君の番が来た」


「ああ。俺も当然架空の問題を告白したよ。嫌いな先輩がしつこく飲みに誘ってくるから、困ってるってな。

 ……するとカウンセラーの目つきが変わった。ヤツが俺に向けたのは、ミラクルクエスチョンの型通りの質問じゃなかった。

『先輩って、どんな人?何故嫌いなの?君は下戸なの?親御さんはお酒を飲む?ひょっとして、酒癖が悪い?』……」



三神教授の手を掴んでいた蕎麦先生の眉間に、一気にしわが刻まれた。

カウンセラーが三神青年にした質問は、答えの無い問いだ。

架空の事実に付随した、存在しない先輩から始まる問い……



「当然な、俺は口から出任せを並べるしか無かったよ。するとヤツは、その出任せに対してさらに突っ込んだ質問をしてくる……

 俺はカウンセラーに誘導されて、架空の人間関係を構築した。生活態度のだらしねぇ評判の悪い先輩、酒癖が悪く、暴力を振るう父。

 その息子である俺は、父の酒癖を深層心理で忌み嫌い、飲酒が出来なくなったトラウマ持ちだ。

 つまり俺が先輩の誘いを断るのは先輩自信が嫌いなわけじゃなくて……父の姿を、無意識に彼に、酒を飲む人間に重ねているからだと」


「……架空の人間関係なんだろ?作り話だ」


「ああ……だがな、東城。サイコドラマも、ミラクルクエスチョンも、精神の治療に効果があるとされる最大の理由は同じなんだ。

『患者自身が、自分の口で事実を言葉にする』……カウンセラーに指摘されるんじゃなく、自分自身の頭で、事実を解釈する。

 だからこそリアルな、説得力のある物語が出来上がるんだ……たとえ……」



虚構の物語であろうと。

三神教授の指が、蕎麦先生に手首を捕まれたまま……彼の手を、爪先で掻き始めた。

カリカリと、爪が皮膚組織を、ごく僅かずつ削いでゆく。



「それから俺は、出来上がった架空の人格の役をあてがわれ、サイコドラマをやらされた。

 他の参加者が飲みに誘う先輩と、酒癖の悪い父の役をやる。俺は先輩の誘いを断ったり了承したり、

 父の酒癖を咎めたり受け入れたりした。その後カウンセラーの指示で……『俺』が関係を修復すべき、父が真情を吐露する。

『照明、俺はお前を愛しているんだよ。お前のためなら酒なんてやめられるんだよ』……ってな」


「よくもそんな……胸糞悪いマネができたものだ」



吐き捨てるように言う蕎麦先生に、三神教授がようやく視線を上げ、小さく笑って見せた。



「途中で何度も降りようと思ったよ。でも会場の雰囲気が……大勢の参加者の視線が、それを許さなかった。

 全部終わった時、どうなったと思う?……俺は酒が飲めなくなってた。人と話すのも、親父の顔を見るのも怖くて出来なくなってた。

 架空の人間を演じ過ぎて、リアルに感じすぎて、現実の心が病んじまってた。

 嘘だと思うだろ?でもな、そのせいで俺は、大学に出れなくなったんだぜ」



三神青年は、確かに大学四年の中頃に休学届けを出している。

蕎麦先生は突然行方をくらました友人を探す事も出来ず、大学と大学院を卒業し、助教になってから、ようやく彼と再会した。



その時、三神青年は未だ、大学生だった。

卒業論文も完成し、就職先も決まっていた彼の人生は、数年間完全に凍結されていたのだ。

蕎麦先生はあえて、その理由を聞こうとはしなかった。本人が頑なに喋ろうとしなかったからだ。


三神教授は蕎麦先生の手を引っ掻きながら、天井を仰いでハハハ、と声だけで笑って見せた。



「たかだか二時間程度のサイコドラマで、俺は人生を狂わされたんだ。酒を飲み、親父と会えるようになるまで何年もかかった。

 つまりよ、東城。お前が言った『個人の病を他人に移す』ってのは、可能なんだよ。

 俺がその証拠さ……架空の人間の物語をすりこまれ、ありもしない人間関係のために心を病んだ。

 架空のドラマを、人生を、生きた人間に挿入出来るなら……実在する人間の病は、より容易くサイコドラマで刷り込めるだろうよ」


「そのカウンセラーには、言ったのか?君が……心を病んだ事を」


「訴えてやった。許せなかったからな。だが勝てなかったよ。

 肉体への傷害ならともかく、精神を壊された事は実証し難いからな……ヤツは今も普通に生活してる。

 ……俺は…………ヤツの身に不幸が降るのを……毎日、祈ってる…………」



離せよ、と三神教授が言った。

いつのまにか動きを止めていた彼の指が、蕎麦先生を生意気に指差していた。

蕎麦先生が手首を解放すると、三神教授がさっさと立ち上がって、ソファーの脇に置いてあるコードレスフォンに歩み寄った。

電源を入れながら、三神教授が赤く腫れたこめかみを撫でる。プッシュしている番号は、多分どこかの風俗店だろう。



「多分、あのカウンセラーは純粋な心理学者としての興味から俺にあんなマネをしたんだと思う。

 虚偽の事実に基づくサイコドラマ。そんな邪道の極みは、そうそう試せるものじゃない。

 ……サイコドラマは他人の立場を実際に演じ、その心を理解出来る。だからこそ『他人の心の病を直接移される』危険は、ある。

 だが東城、今回の子供達の場合……行方不明になった時間は、せいぜい数分と聞いている。数分じゃサイコドラマは不可能だ」


「逆に充分な時間があれば、私の『クセ』を彼らに移す事は可能……という事だな?」


「個人的にはそう思うよ。悪用されたサイコドラマは……最早『洗脳』の技術だ。実際に体験した者しか分からんがね。

 しかし、あの子達が本当にお前のクセを移されたのだとしたら、犯人は、少なくともお前をよく知ってる人物だ。

 お前にあのクセが出た経緯、その心情を、よく理解していなければ……いくらサイコドラマでも、正確なクセの移植は無理だ。

 演じさせる『役』が作れんからな」



電話がつながり、三神教授が嬉しそうにデリヘル嬢の名前と、サービス内容を相手に伝えている。

一方蕎麦先生は顎に手を当て、眉間にしわを寄せたまま壁を睨んでいる。


人間の精神を玩具にし、患者達に非人道的な心理実験をしていた連中を、彼は知っている。

奴らは幼少の蕎麦先生を天井の監視カメラで観察し、画用紙に白いクレヨンを塗りたくる様を、ずっと観ていたのだ……


三神教授が電話を終え、両手を擦り合わせながらソファーに身を投じ、蕎麦先生を見た。

「ところで、いつまで居るの?」と言わんばかりの純粋な眼差しに、蕎麦先生が肩をすくめて玄関に向かう。



「参考になったよ、三神……君の尊厳を傷つけたカウンセラーに、罰が下ると善いな」


「全くだ。……しかし東城、今回の事件は本当に、つかみ所が無い。

 手がかりも無ければ因果も不明だ。佐倉が子供達の症状から、お前を連想して縋ってきた。それ自体も本来、理不尽な話だ」


「まあな。だが私は君と違って、理不尽には慣れている。

 怪奇現象ってのは、意味も因果も分からんから『怪奇』現象なのだ」



突飛な発想や、荒唐無稽な推測が、正解の時も在る。

そう続けながら蕎麦先生は背中越しに旧友に手を振り、部屋を後にした。
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
翌朝、ホテルで蕎麦先生を待っていた美耶子は朝早くに電話のコール音で叩き起こされた。

電話の主は結局ホテルに帰ってこなかった蕎麦先生で、今すぐ身支度をして、駅から指定の電車に乗れとの事だった。

てっきり二人でホテルを発つものと思っていた美耶子は仰天して顔も洗わぬまま急いで部屋を飛び出し、

フロントにホテルが24時間チェックアウト式である事を誉めながら手続きを済ませ、スニーカーの靴紐も結ばぬまま駅に飛び込んだ。

それから急行電車を二つ乗り継ぎ、二時間。飲まず喰わずで港町の終着駅に辿り着いた美耶子を、ベンチに座った蕎麦先生がしれっと迎えた。

前日から着続けているよれよれの服装の美耶子に対し、蕎麦先生は真新しいグレーの三つボタンのスーツとズボンをぱりっと着こなし、

丹念に靴墨の塗られた革靴を履き、スーツと同色のハットを被っている。

美耶子は電車から降りた瞬間、ずかずかと蕎麦先生に歩み寄り、そのワインレッドのネクタイを掴み上げようとして逆に手首を捻られた。

痛い痛いと騒ぐ美耶子にさも不思議そうに、蕎麦先生が首をかしげて言う。



「どうしたんだ肉袋クン。いきなりレディーらしからぬ無礼を働こうとするなんて……」


「あっ、肉袋って呼んだ!髪のセットもバッチリだしクマも取れてるし、何なの!?何でいきなり復活してるんですか!!」


「いや、心配をかけてすまなかった。今も気分は優れないんだが、いつまでも君に情けない顔を見せていては申し訳ないと思ってね。

 無理やり元気を出そうとおニューの服を着てぐっすり快眠してみた。どうだろう?」



どうだろう?と訊きながら手首を捻り続ける蕎麦先生に、美耶子がたまらず「いいと思います!」と叫んだ。

満足げに手首を離す蕎麦先生を、美耶子が割りと本気で睨みつける。

この気分屋をホテルに居た間ずっと心配していたなんて馬鹿みたいだ。



「だいたい何で先生、先に港に来てるんですか!ホテルにチェックインしとけとか言っといて!

 先生のワガママのせいで私寝不足だし、朝ごはんも食べれなかったんですよ!?」


「それは悪かった。急に気が変わってね、何となく夜の間に移動しとこうと思った。

 ……まぁそう膨れるな。向こうの桟橋のレストランで何か食べよう。奢ってあげるから」



結局美耶子はぶーぶー文句を言いながらも、小一時間後には海を一望できる朝のレストランで、

黒毛和牛のフィレステーキと伊勢海老の残酷焼きと、うに飯を同時に食べる事ですっかり機嫌を直してしまった。

満たされた猫のようなだらしない顔で、口元を手で隠しながら爪楊枝を操る美耶子を、蕎麦先生が呆れ顔で見る。



「それだけ食べて太らないのは人体の神秘だな。朝っぱらからそんなこってりしたモノを……私はざる蕎麦で精一杯だったのに」


「朝っぱらから長距離移動させたからですよ!あとお昼ごはん用にここの海鮮弁当買うんでそれも奢ってください。

 ウナギとアナゴとウツボの三大ニョロニョロ魚の塩焼きが入ってるんです。税込み3360円」



あとお茶も。と続ける美耶子に、蕎麦先生は存外気前よく「分かった」と手をひらひらさせる。

普段から何かと面倒臭い男ではあるが、負い目のある時は素直に埋め合わせをするのが彼の美点だ。

そんな事を考えながら木椅子にもたれていた美耶子の前に、いきなり蕎麦先生が足元に置いていたトランクをどっかと置いた。

ぽかんとする美耶子の前で氷水のコップを取り、蕎麦先生が言う。



「ご存知の通りこれは私の仕事道具が詰まったトランクだ。今回は君が持っていたまえ」


「……え、何で?」


「必要な物はポケットに詰めた。これから向かう場所は私の因縁の地だ……なるべく身軽に探索したい。

 それに『何か』が起こった時、心霊の知識の乏しい君では対処出来んからな」



……やっぱり、変だ。

足を組んで水をすする蕎麦先生を、美耶子はまたもや不安の混じった目で見つめた。

確かに昨日に比べて、彼のテンションや顔色は本来のものに回復しているように見える。

だが蕎麦先生は自分の仕事道具を、最初から美耶子に預けるような事はしない人だった。

何が起こるか分からない場所では、いつも自らの手で道具を操り、調査を進める。

それが今回に限って……



美耶子は何か言いたげに唇を舐めていたが、蕎麦先生が視線をそらしたので、仕方なくトランクに手を伸ばした。

バチン、バチンとロックを外してそれを開けると、美耶子にとってもお馴染みの道具が顔を出す。

強力ライトと、プラスチックのライトボール。

稲荷大明神や一目連、恵比寿様の護符が入った札入れ、魔よけの天然塩の入った瓶。

他にはアーミーナイフや筆記用具、メタルマッチにフック付きの登山ロープ、毛布と発炎筒、緊急用の衛星電話が入っている。

それらを指で撫でていた美耶子が、ふと毛布の奥に小汚い布切れを見つけた。

何気なくそれを摘み出した美耶子が、硬直する。

蕎麦先生が視線もやらずに、しれっと声を投げた。



「そいつは悪意の塊だ。害は無いが、人間が災いに近づくのが楽しくて仕方ないんだ。

 何かあったらいつも私がしていたように、そいつの表情を読め。笑っていたら、周囲に災いが潜んでいる証拠だ。

 ……なるべく、私が近くに居ない時に取り出してくれ」



美耶子が手にしたテルテル坊主は、蕎麦先生に向かって大口の笑みを向けていた。






 

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