同時刻。佐倉氏の運営している『児童福祉促進救済センター』の一室では、

固い床に死体のように転がった三神教授が、作成した資料の山に囲まれ、天井を睨んでいた。

ドアのはまっていない部屋の入り口からは、廊下の先で延々と白い画用紙に白いクレヨンをこすり付け続ける、

子供達の唯一の生活音が響いてくる。



三神教授は先刻、自分の携帯電話で、蕎麦先生の衛星電話を呼び出していた。

どうしても訊きたい事があった故なのだが、何度コールしても呼び出し音すら聞こえず、繋がらない。

カン高いネズミの鳴き声のような妙な音が一瞬聞こえるだけで、何故か、こちらの携帯電話の電源が落ちてしまう。

故障かと思い他の番号にかけてみると、問題なく繋がり、会話も出来る。

専門外だからよく分からないが、衛星電話と携帯電話の通話には、何かしらの相性のようなものがあるのだろうか。

肝心な時につかまらない旧友に舌打ちをしていると、ガリガリというクレヨンの音に混じって、

階段を上ってくるハイヒールの音が聞こえてきた。

三神教授は本物の死体と間違われないようにゆっくりと身を起こすと、床の上にあぐらを掻き、足音の主を待った。



数秒後、部屋の入り口から、化粧もしていない佐倉氏が息せき切って現れた。

……どうでもいい事だが、三神教授はすっぴんの彼女の方が好きだ。

ファンデーションをごてごてつけた顔は、内心見苦しいと思っている。



「何か分かったの!三神ん!?」


「お前は何故、今回の事を東城に相談したんだ?」



携帯電話の故障を疑った時、三神教授は蕎麦先生の代わりに佐倉氏に電話をかけた。

すぐに自分の元に来るように、そう告げた後、ずっと死体のように床に転がっていた。

そして今、到着した佐倉氏に投げた声には、どこかさめたような、諦めの色が混じっていた。

佐倉氏は三神教授の問いに数回深呼吸をした後、視線をわずかに三神教授から外して答えた。



「だから、他に頼る人が居なかったからよ。専門家達はみんな匙を投げちゃったし、ダメもとで……」


「ああ、ヤツは大学教授のクセに、怪奇現象だの心霊現象だのを調べて小遣いを稼いでいるな。

 霊能力者だか拝み屋だか知らんが、そういう業界ではそれなりに名も知れてるらしい。

 だが、佐倉。そんな事は本当はどうでもよかったんだよな?」



よっこいせ、と立ち上がった三神教授が、背後の窓まで下がり、窓枠に腰掛ける。



「向こうの部屋に居る子供達の件は、確かに怪奇な現象だろうよ。俺自身彼らを診始めたばかりだが、何の光明も見えん。

 だがそれでも、俺だったら『心霊学者』なんぞに助力を求めたりはしない。

 手を借りたいのは、子供達と同じ行動を繰り返してきた、東城蕎麦太郎という一個人だ」


「……何を言ってるの?」


「お前は東城に仕事を頼んだ夜、『胡散臭い心霊学者として相談に乗ってくれ』と言ったろ。

 ありゃ、誠実な台詞とは言えなかった。お前が期待していたのは心霊学者としての東城ではなく、

『子供達と同じ症状を持つ大人としての』東城だった。

 ……白い画用紙に白いクレヨンを塗りつける。こんなワケの分からん症状は他に無いからな。

 東城はひょっとしたら、以前子供達と完全に同じ状態であり、何らかの治療を受けて今の状態まで回復したのかもしれない。

 四六時中白いクレヨンを握っていなくてもいい……日常生活を営める状態にまで、な」



佐倉氏は三神教授の言葉を聞いて、うーん、と唸った後、

腕を軽く組んで、困ったように首を傾けた。



「そりゃ、まぁ……確かにそうだけど。

 でも、因果の分からない不思議な事件を調べてくれる、プロとしての蕎麦クンにも期待してるのよ?

 蕎麦クンのあの『クセ』が子供達の症状に関係してたら……子供達を助ける手がかりを、彼から得られたら。

 そんな事も確かに考えていたけれど……っていうか……

 そう言わなかったっけ?子供達と同じ経験をしている蕎麦クンが、解決の糸口になってくれたら、みたいな事」


「本当に、ヤツが糸口になるかも知れない」



三神教授はズボンのポケットから潰れた菓子パンの袋を取り出し、包装のビニールを破いた。

ぱっと瞳を輝かせる佐倉氏が、もう数歩三神教授に歩み寄る。

それに対して、三神教授の表情は暗い。

化粧をしている時よりもずっと若く見える佐倉氏の顔を見ながら、乾いた唇が言葉を続けた。



「俺は東城が、どんな風に怪奇現象とやらを調査するのか知らん。

 だがヤツも人間だ、何の情報も無ければ調べようがないだろう。

 どんな事件も手元にある、最も有力な関連情報を元に調査を進めるはずだ。

 今回に限って言えば、被害者である子供達から得られる情報は0……警察機関が掴んだ情報も0だ。

 事件か、事故か、元凶となる犯人はいるのか、それすらも分からん。

 ならば必然的に……東城は、子供達と同じ症状を持つ、自分の過去から洗うはずだ。

 ヤツは過去の記憶の大部分を喪失している。

 きっと……自分が、いつから白い画用紙に白いクレヨンをこすり付けるようになったのか。

 それを解明しに、行ったはずだ」



湿った菓子パンを一口頬張ってから、三神教授は再び窓枠から腰を上げ、散乱した資料の山を掻き分ける。

何か、判明した新事実でも示すのかと思いきや、彼が掴み上げたのは栓の外れたコーラのペットボトルだった。

喉を鳴らしてそれを飲み干し、一息つくまで佐倉氏を待たせてから、話を再開する。



「俺は、ここに来てヤツが心配になったよ。今まで子供達の方にばかり注意を向けていたが……

 本当に気をつけてやらなきゃいけなかったのは、東城の方だったかも知れん」


「どういう意味……?」


「東城の話、覚えてるか?白い地獄に閉じ込められて……って、記憶の断片だが」


「勿論。真っ白な部屋に閉じ込められて、たった一人で白い画用紙にクレヨンを塗ってた、ってアレね?

 学生時代にも何度か聞いた話だもの。

 蕎麦クン、子供の頃の思い出は、それしか覚えてないのよね……」


「おかしくないか」



三神教授の言葉に、佐倉氏が「え?」と眉を寄せる。

空のペットボトルに菓子パンのビニールを詰め込みながら、三神教授は僅かに声を落として言った。



「白い部屋の記憶は、東城にとって最も辛い記憶だったはずだ。

 ヤツはその話になると、目に見えて情緒が不安定になり、豹変する。

 ヤツにとって最大のトラウマ、それが白い部屋の記憶だ」


「それの、何がおかしいの?」


「いいか、東城はあまりに辛い境遇に、幼少期のある時点からの記憶を喪失しているんだ。

 心理的なストレスやトラウマが原因で記憶が封印される事は、珍しくは無い。

 例を言うと、たとえば母親に酷い虐待を受け、死ぬような目にあった人物が居たとする。

 この人物は虐待を想起する事で生まれる精神的苦痛から逃れるために、無意識に当時の記憶を封印する。

 完全に記憶が無くなる事もあるが、東城のようにごく一部の記憶だけが残る事もある……

 それは、例外もあるが、虐待に関係の無い事か、苦痛を忘れるのに都合のいい類の記憶だ」



三神教授はペットボトルを部屋の隅のゴミ箱に投げ捨て、窓を開けた。

吹き込んでくる風に資料が舞うが、三神教授も、佐倉氏も気には留めない。

風の音とクレヨンを動かす音が、混じって廊下を流れた。



「母親からの虐待を忘れる代わりに、母親と食事をした事や、散歩した事だけを思い出すようになる。

 ほんの少し優しくされた事や、幸せだった事を何度も何度も思い返し、やがてその記憶は大げさに変容する。

 母親はいつも美味しい料理を作ってくれて、楽しい場所に連れて行ってくれて、優しく優しく接してくれた、と。

 虐待を行う悪い母親の記憶は、いつしか非の打ち所が無い模範的な慈母の記憶となる。

 辛い記憶の元凶である母親を美化する事で、虐待など初めから無かったと思い込む。自己防衛のための記憶喪失だ」


「自分が幸福だった。そう思いこむわけね……」


「だがこのメカニズムは東城にはあてはまらない。

 ヤツは他の全てを忘れて、一番辛い記憶を覚えているんだ」



白い部屋に永遠に閉じ込められた記憶。

それが蕎麦先生のトラウマであり、唯一の思い出だ。

何故、好ましい記憶ではなく、苦痛を伴う記憶だけを覚えているのか……

佐倉氏は、少し考えてから、自信がなさそうに伏せ目がちに言う。



「本当は彼の心は記憶を全部忘れようとしたけど、白い部屋の記憶があまりに強烈で、断片的に残っちゃったとか……」


「ありうる。だが、もっと悪い解釈もある。

 東城にとって白い部屋の記憶は、『最悪の記憶』……『トラウマの中枢』ではなかったとしたら。

 実は他にもっと、もっと苦痛に満ちた体験があり、それを忘れるために白い部屋の記憶を残したのだとしたら……?」



窓から吹き込む風が、二人の身体を冷たく撫でてゆく。

佐倉氏はそれにもかかわらずうっすらと汗を額に浮かべ、三神教授を唖然と見つめていた。

三神教授の目が、得体の知れない光を宿し、彼女を視線で射抜く。



「まばゆく輝く白い部屋に閉じ込められていた。それは確かに、確かに東城にとって辛い事だったろう。

 だが、ヤツにはきっと、部屋から出る機会があったんだ。そして部屋の外では、さらにおぞましい出来事があった。

 部屋の幽閉も地獄、外の世界も地獄。

 より恐ろしい外の世界の記憶を消すために、東城の心は白い部屋の記憶を残す事を選んだんだ。

 けっして出られない、白い狂気の部屋。

 そこにずっと閉じ込められていた事にすれば……外の世界の記憶は、完全に隠滅できる」


「推測だわ。それは……あなたの、推測よ」


「その通りだな。だが、これで辻褄が合ってしまう。

 東城が今も、白い部屋を思い出すような行動を続けている理由がな。

 数十年が経ち、日常生活を営めるようになった今も……ヤツは、白い画用紙に白いクレヨンを塗り続けているんだぜ……

 それは、白い部屋をあえて思い出し……それに隠された、トラウマを蘇らせないようにするためじゃないのか……?」



だから、俺は東城が、心配だ。

そう続ける三神教授は、佐倉氏のそばに屈み込み、散らばった資料をあさり出す。

佐倉氏はその様子を見下ろしながら、ぎゅっと手を握り締め、唇を何度も舐めながら、うめいた。



「私が……蕎麦クンに依頼をしたから……蕎麦クンの、本当に辛い記憶が、蘇る……?」


「仮にそうなった時、ヤツの心はショックに耐えられるのか、と思ってね。

 白い部屋の想起でさえ取り乱しがちだったヤツだ……俺は、人間の心がどんなに脆いか、知ってるからな。

 ……佐倉、俺は、別にお前を責めようと思って呼んだ訳じゃない。お前が何も悪くないのは分かってる。

 だが、もし……もし東城がボロボロになって帰ってきたら……一緒に、ヤツの力になってくれよな」



顔を上げた三神教授が、初めてうっすらと笑みを向けた。

佐倉氏は数秒努力したが、どうしても笑みを返せないので、そのまま深く俯いて顔を背けた。

その様子に彼女の大根足をぽんぽんと軽く叩いてから、三神教授は資料の一つを取り上げ、

「さて!」と声を上げて一気に立ち上がった。

佐倉氏の髪をむんずと掴み、無理やり顔を上げさせる。

恐ろしく乱暴な扱いに悲鳴を上げる彼女に、三神教授はまた真剣な顔で言った。



「わざわざお前を呼んだのはこの話だけをするためじゃないぜ?

 言ったろ、東城が糸口になるかもしれない、ってな。

 実は子供達を観察してて、一つだけ分かった事があるんだ」


「……!何!重要な事!?」


「重要で、衝撃的、しかし役に立つか分からん事実だ。

 子供達が一切俺に興味を示してくれないんでな、心理学者として出来る事は何も無かった。

 面接が出来なけりゃ、心理的手法なんぞ何も使えん……

 他の精神科医達もみんな同じ理由で匙を投げたんだろうが……その点、俺の方が優秀って事だな」



三神教授は軽く胸を張ってから、佐倉氏の肩に手を回し、彼女の顔に顔を寄せた。

怪訝そうに眉をひそめる佐倉氏に、囁くように訊く。



「佐倉、お前……あの子供達が、画用紙に何を描いているか、気にならないか?」


「どういう事……?白い画用紙に白いクレヨンで線を引いたって、何も描けないわよ。

 ほんの少し見えない粉が付着するだけだし、あの子達はガリガリこすり付けてるだけ。

 絵を描いてるとは思えないわ」


「皆そう思うだろうな。実際、白に白を塗ったって無意味だ。絵を描くには、自分の引いた線をある程度見なきゃ、難しい。

 視認できない白い線だけで絵を描くのは不可能……そう、皆が『思い込んだ』……

 だから子供達の行動は、単なる奇行で済まされてしまったんだ」



三神教授はそう言うとシャツのポケットから、白いクレヨンのようなものを取り出した。



「これは、暗号クレヨンって言ってな。これで描いた線は普通に見ると透明で分からないんだが、

 暗い所で見ると線が発光して描いたものが見えるようになる。

 蛍光塗料やら何やらを使って作った玩具だよ。似たような玩具は時々コマーシャルに出たりしてるよな」


「あなた、まさか」


「少々気が引けたが、子供達の何人かにこいつを渡した。

 で、画用紙を回収して描かれたものを確認したんだ。

 こいつがその写真なんだが……」



三神教授は手にした資料を、佐倉氏に手渡した。

資料を見た佐倉氏が、声にならない悲鳴を上げる。

思わず取り落とした資料には、闇の中に浮かび上がる、無数の顔面の絵がプリントされていた。

画用紙の写真は五種類。それぞれに描かれた顔面の数は、ぴったり同じ。

所詮子供が描いた物なので、顔面は丸い輪郭に丸い目と口が入れられただけの簡単なものだったが、

何度も何度も塗り重ねられた線がその相貌を、何とも言えぬ不気味な形に浮き上がらせていた。

……子供達は、絵を描いていたのだ。

誰かの顔を、何度も何度も見えない線で描き続けていたのだ。



「失敗したのは、蛍光塗料では絵を完全には浮上させられない事だ。

 顔は分かる。だが絵のバックには他にも何か描かれている気がする。

 よく見ると手足のようなものも見えるし、何か妙な隙間もある……

 細かい絵をクレヨンで何度も塗り重ねて描いてるもんだから、塗料が散って顔以外の部分が潰れてしまっているんだ。

 大学の方に行けば画用紙に付着したクレヨンの粉を、もっと高度な方法で正確に解析する機械がある。

 これから行って来ようと思うんだが」



ついて来るかい?

そう目で問う三神教授に、佐倉氏は口元を手で押さえながら、しかしはっきりと頷いて見せた。

三神教授は今度はにっこりと笑顔を見せ、佐倉氏の頭をがしがしと撫でた。



「絵を完全に解析すれば、何か分かるかもしれない。そして東城が帰ってくれば……ヤツの描いた画用紙も解析させて貰おう。

 子供達と東城の描いた絵が同じなら、また手がかりが掴めるかも知れない。

 東城が糸口になるかも、というのは、そういう事さ……両者の症状の内容が同じなら、それこそ東城が……」



子供達を立ち直らせるための、サンプルになる。

そう言って部屋の入り口に向かおうとした三神教授の足が、止まった。

ぐ、と喉を詰まらせる彼の様子に、遅れて佐倉氏も入り口へと目をやる。





何故気付かなかったのだろう。

窓を開けたせいか。吹き込む風の音と、それぞれの発する声に、意識を乱されていたのか。

クレヨンを擦る、ガリガリという音が、今は、全く聞こえなかった。






三神教授は、後悔した。

佐倉氏を呼び出すのではなく、自分が佐倉氏の元へ赴くべきだった。

彼は、大口を開けて自分を指差す子供達が、一斉に獣のような悲鳴を上げた瞬間。

操り人形の糸が切れるように、声も無く床に突っ伏した。






 

前のページへ 目次 次のページへ→

inserted by FC2 system