美耶子は今、闇の中に居る。

地下通路での恐ろしい出来事の後、彼女の意識は途切れ、虚空を彷徨っていたらしい。

硬いタイルらしき床に尻餅をついた姿勢で、美耶子は闇の中、静かに覚醒していた。

そのままぼぅっと数分、黒い闇を見つめていた美耶子は、

ふと気付いて自分の肩や、腿を撫でた。

タイルの床の硬さを直接尻に感じていた身体からは、一切の衣類が剥ぎ取られていた。

自分の身に何が起こったのか、理解できない。

にわかに蘇り始めた危機感に立ち上がろうと足を引くと、

ガシャン!と金属の音がして、足首に痛みが走った。

思わず悲鳴を上げると、なんと美耶子の真正面から、「しっ!」と人の声がかかる。

何も見えない闇の先から、男とも女とも分からぬ、しゃがれた声が美耶子をいさめた。



「騒がないで……大丈夫、大丈夫だから……」


「誰ッ、どこにいるの」



聞き覚えの無い人間の声がかけられた事で、美耶子は余計パニックに陥りかけた。

この島には、自分と蕎麦先生の二人しか生きた人間は居ないはずなのだ。

それ以外の声が聞こえたとしたら、それは……




手探りで目の前の声の主を押しのけようとした美耶子の視界が、

突然ビッ、と言う音と共に明るくなった。

思わず両手をかざす彼女の前に、太った中年の女が、片手に裂けた黒いゴミ袋をさげてしゃがみ込んでいる。

中年女の背後には、背の高い色黒の男と、幼稚園の制服を着た女の子が立っていた。



周囲を見回すと、そこは壁も床もタイル張りの浴場のような場所で、天井は無く、鉛色の曇天が頭上に広がっている。

美耶子は続いて中年女の持つゴミ袋を見て、ようやく自分が暗所に居るのではなく、

黒いゴミ袋をかぶせられ、視界を奪われていた事を理解した。



先程痛んだ足首を見ると、美耶子の右足と、タイルの壁を這うパイプに……

どういうわけか手錠がかけられ、繋がれていた。



あまりに突拍子も無い状況に唖然としている美耶子をよそに、

目の前の三人は美耶子の足を拘束している手錠や、壁のパイプを弄り出した。

やがて色黒の男がパイプのジョイントの、錆びて脆くなった部分を見つけ、

力任せに壁から引き離しにかかった。

バキバキと音を立てるパイプに、中年女がまたもや「しっ!」と声を立てる。



「田中……!静かに剥がしなさい!」


「ちょっと、誰なんですか、あなた達……」



田中、という名字には聞き覚えがあった。

勿論メジャーな名字ではあるが、つい最近、その名を誰かから聞いた気がする。

……思い出せないが、今目の前に居る田中は、錆やネジを飛び散らせながら、

美耶子の足を拘束していたパイプをねじ曲げ、外してしまった。

パイプからするりと手錠を抜き取ると、色黒の顔に埋め込まれた死んだ魚のような目が、

じっと美耶子の顔を凝視してきた。

そのまま首、鎖骨……と視線が下りたところで、中年女が自分の着ていたジャケットを美耶子にひっ被せた。



「ほらほら気が利かないね!脱ぎな田中!脱げ脱げ!あんた二倍着てんだから!脱いでよこせ!」



田中が言われるままにのそのそと、自分が着ていた灰色のツナギを脱ぎ、美耶子に差し出す。

美耶子は、三人の生々しい、人間らしいやりとりに幾分か気を持ち直して、

軽く会釈するように目を伏せながら渡されたツナギに足を通した。

なにしろ背の高い男の着ていたものだから、サイズが合わないが……

ツナギに下半身だけを差しこみ、袖の部分を胴に巻いて、へその上できつく結ぶ。

上半身には中年女の茶色い皮ジャケットを着て、袖を二の腕まで捲り上げた。



身支度を整えると、美耶子は改めてセーターを着た中年女と、短パンとTシャツ姿になった田中、

幼稚園の制服を着た女の子の三人に、問いかけた。



「……誰?」


「あんた多分、あたしらを知ってると思うけどね」



全く記憶に無い。

美耶子がそう答える前に、中年女が鼻を鳴らして答えた。



「近藤 幸子(こんどう さちこ)……まぁ、名前は知らないだろうけどさ。

 この島を訪れて『蒸発』した、六人目の行方不明者さ。

 あのおしゃべり船長が話したでしょ?得意げにさ」


「行方不明者……!あぁ、思い出した!

 迎えが来ても出てこなかったっていう……何してたんですか、今まで!?」


「今のあんたと同じさ。『出れなく』なっちゃってさ、カンヅメだよ」



幸子が肩をすくめて、美耶子の手を引いた。

タイルの床を歩き、浴場の出口……錆びた鉄の扉を、ゆっくりと開ける。



扉の先には、茶色い世界が広がっていた。

錆だか埃だか、得体の知れない諸々に覆われた、タイルの床。

天井には点々と裸電球が点き、どこかでファンが空気をかき回す音が響いている……



美耶子には知るよしもなかったが、そこは、蕎麦先生がエレベーターで降りて行った、

キヨミの居る廊下だった。



「この病院はね、ある地点から、時間と場所の概念が狂ってるんだよ。

 入ったと思ったら出ている、出たと思ったら戻っている、上がったはずが下がっていて、

 経過したはずがさかのぼっている……」


「すいません、全然分かんないんですけど」


「化け物に遭ったでしょ」



扉を閉め、幸子が美耶子に、切れ長の目を向ける。

その、太った中年女の目が、くん、と三日月のように歪むのを見て、

美耶子ははっとしたように唇に手を当てた。

性別も体格も全く違うのに、幸子のその表情は、蕎麦先生にそっくりだった。

美耶子はひょっとして、と、他の二人に視線を巡らせながら、問う。



「心霊関係の人だったり、します?」


「心霊?それって幽霊とか、悪霊とかの話?」


「はい、霊能者とか、浄霊師とか……」


「汚らわしい!迷信や狂信に基づくインチキ野郎どもと一緒にしないで頂戴!

 私はサイコメトラーよ!俗な言い方をすれば超能力者!

 死体や遺品に遺された人の思念のパワーを探れる捜査のプロフェッショナル!!」



「警察に協力したこともあるんだから!」と豪語する幸子を見て、

美耶子は精神病院に入り込んでから、初めて、恐怖が紛れていくのを感じた。

胡散臭い、俗物的な人間が撒き散らす気の抜けるような『空気』。

それが得体の知れない不安に縮み上がっていた心を、問答無用でほぐしていく。



幸子は何故か安堵したような顔をしている美耶子にフンフンと鼻息を噴きかけながら、

ジーンズのポケットから一枚の写真を取り出し、突き出した。



写真には、修道女の格好をした老女が映っている。



「この女、東城 環(とうじょう たまき)って言うんだけどね。

 今あんたが言ったような浄霊師を自称して、不埒な心霊商売をしてたんだけど……」


「……とうじょう……?」


「そう、『東』の『城』って書いてとうじょう。

 はっきり言うと、この女がこの病院の、異常事態を引き起こしたのよ。

 もう故人だけど……あたしはこの女のした事を解明するために、

 病院の元職員に頼まれて調査に来たのよ」



美耶子は直感的に、写真の老女と、蕎麦先生が無関係ではないと察した。

同じ名字、心霊に関係のある仕事をしていて、この精神病院に、関係している……

蕎麦先生の養い親だと推測するのは、不自然な事ではなかった。



気がつくと美耶子の左手の中指を、女の子が握り締めていた。

黒い真珠のような目で見上げてくる彼女を指差し、幸子がため息をつく。



「その子も東城 環の被害者よ。可哀想にね。

『コーイチ』に襲われてから、一言も喋れなくなっちゃって……」


「幸子さん、ちょっと待って!

 どんどん新しい話されても頭が追いつきませんよ!

 順番に教えてください……まず、ここは何なんですか?」


「精神病院よ。元だけどね。

 非合法な人体実験が露見して閉鎖されたわ」


「はい、それは知ってます。それで……ここに居る『化け物』は、何なんですか?

 地下通路でガリガリに痩せた女に追いかけられて、それから……大きな影に、さらわれたんですけど」



幸子はジーンズの尻ポケットからマルボロを取り出し、口にくわえた。

ライターを探しながら、ふん、と嘲るような声を出し、答える。



「『化け物』はこの病院の関係者よ。

 地下通路の女は『山口』って名前の職員ね。大きな影ってのが、多分コーイチよ」



山口。この名字も聞き覚えがある。

確か……蕎麦先生の話に出てきた、カオリさんを殺した職員だ。

コーイチの方は、思い出すまでも無い。蕎麦先生が関わった患者、コーイチおじさん。

首を吊りたがっていた、人体実験の被害者……



「じゃ、幽霊ですね。二人ともだいぶ前に死んだ人間です」


「……そのへんの解釈は、話を進めるために今はおいとくわ。

 どうやらある程度の知識があるようだから、細々とした説明は省くけど。

 この病院には何か、超常的な力が働いている。その力が化け物を生み出したようね」


「その超常現象ってのを引き起こしたのが、さっきの東城 環さんなんですね?」



ようやく見つけたライターで、幸子がマルボロに火をつける。

しけった煙草からは、殆ど香りが漂って来ない。



「東城 環は……この病院に出入りして、長年怪しい行為を続けていたみたい。

 患者に何かを吹き込んだり、手渡したり……死亡した患者の一部を、盗んだり。

 はっきりとした証拠は無いけど、とにかく妙な事をしていた。

 この病院が閉鎖された時も、人体実験の情報を警察にリークしたっていうし……」


「内部告発ですね」


「えぇ。ただ、この時職員や医師の大半が、警官に逮捕される前に屋上から投身しているわ。

 社会的な制裁を恐れて集団自殺、って事になったけど……

 いくら追い詰められたからって、何十人も仲良く自殺だなんて、現実的だと思う?」


「……」


「あたしの依頼者……投身して、運良く木の枝に落ちて助かった元職員がね……言うのよ。

『あれは自殺じゃなく、殺人だった』って」



がちっ、と音がして、美耶子と幸子が同時に浴場の隅を見る。

背の高い色黒の田中が、タイルの隙間にしゃがみ込み、歯をガチガチと震わせながら、頭を抱え震えていた。

……田中…………思い出した。

蕎麦先生の話に出てきた、職員の名だ。

山口……尾尻……河合……田中。

低くすすり泣く彼を軽蔑するような目で見ながら、幸子が話を再開する。



「警官が来る前に、『何か』が現れたんですって。

 人形……すごくたくさんの人形が、一つになったのとか。

 目の無い女や、ネズミの大群が。

 ……それが、職員達を屋上に追い詰めて。突き落としたんだって」


「その化け物達を、東城 環さんが作ったと?」


「さぁね。ただ、依頼者が言うには……その時、東城 環は現場に居て……

 化け物達は、彼女を『避けて通ってた』って」




「あの女が!!あの女が黒幕に違いないんだ!!!」



隅で震えていた田中が、初めて声を上げた。

大声に美耶子の指を握っていた女の子がびくりと身を震わせ、泣きそうな顔で美耶子の腹に抱きついてくる。

幸子の咎めるような視線を受けながら、田中は美耶子に顔を向け、訴えるように言葉を続ける。



「俺は聞いたんです。あの女が……蕎麦太郎の奴に、『魔術』を吹き込んでたのを。

 あの女、初めからうちの先生達をよく思ってなかった……患者が死んだ時、お清めに呼ばれるだけの人間なのに……

 毎日通うようになって……

 あいつは、蕎麦太郎に言ってやがったんです!『神様に頼めば、ここから出られる』って!」


「……神様って?」



まるで男のような、ドスの利いた声を出した美耶子に、他の三人が同時に目を丸く剥いた。

美耶子は田中を見下したまま、もう一度「神様って?」と、低く問う。

田中は美耶子から視線を外し、床を見つめて……震えながら、言った。



「蕎麦太郎のヤツが、描いてやがった『絵』です……畜生……

 あれは、きっと呪いの絵だったんだ……何百枚も、何千枚も描いてやがった……

 ある日、あんまり目障りだったんで。『絵』を捨ててやったんです。ゴミと一緒に、焼却炉に……そしたら」


「そしたら?」


「…………聞こえたんです……焼却炉の中から、声が……

『ゆるされるとおもってるのかぁ、ゆるされるとおもってるのかぁ』……って……」




「ま、とにかくそういう証言があったもんだからね。

 あたしのような人間が事後調査に雇われたのよ」



田中の話を遮るように、幸子が美耶子の前に立って言った。

幸子は内心、眉間に犬のようにシワを寄せた美耶子の表情の苛烈さに戸惑ったが、

あえて唇を釣り上げて笑顔を見せた。



「さっきも言ったけど、あたし、サイコメトラーなのよ。

 サイコメトラーってのは、遺体や物品に染み付いた人間の『意志』を感じ取り、追跡する仕事よ。

 事件が起こった後からでも、当時の状況を知ることが出来る……」


「私は、探偵です。別に超能力なんかありませんけど。

 ……今、田中さんの話に出てきた『絵』に関連した事件を調べに来ました。

 ご存知ですか?今、白い画用紙に白いクレヨンを塗りたくる子供達が……」


「知ってるわよ、勿論。その子達の事も調べに来たの、この島に……

 そろそろ長話も飽きてきたでしょう?結論から言うわ。

 二つの事件の『元凶』のいくつかは、まだこの島に居るのよ」



幸子はマルボロを足元に捨て、火を靴底でじりじりと踏み消した。

大きな顔を美耶子に寄せ、囁くように声を落とす。



「ここに居る化け物達は、人体実験の被害者達の肥大した『思念』とその虜達よ。

 そうしたいなら『幽霊』とか、『怨念』って言葉に替えて理解してもいいけど。

 東城 環は被害者達の憎悪と復讐心を煽り、この世に強い死者の『思念』を遺させたの」


「『呪い』って事ですか?」


「ま、意味する所は同じね。人間の強い思念がこの世の法則を破壊したの。

 この病院では死者が蘇り、人間以外のモノが彷徨っている。

 そういう『世界』を作り出しているのよ。

 そこに私達は、囚われた」



いったい心霊を否定するサイコメトラーがどのような世界観を持っているのか、

自称超能力者の力説する話は、今、この状況でなければ到底人々に理解されぬものだ。

美耶子は女の子の頭に手を置いたまま、幸子の興奮気味の語りに耳を傾け続ける。



「私以外の行方不明者も、皆この世界に迷い込んだの。

 白いクレヨンが手放せなくなった子供達も、この世界に囚われていたのよ。

 この世界を彷徨ったから、おかしくなってしまったの」


「子供達がいなくなったのは数分って聞いてますけど……」


「さっき言ったわ!この世界は時間と場所が入り混じっているのよ!

 元の世界で五分消えただけでもこの世界じゃ何日も過ごしてるの!」


「……突飛ですね」



美耶子が言った瞬間、幸子は高く「アハハ」と笑い、先程開けた鉄の扉へ駆け寄る。

美耶子に向かって人差し指を立て、扉を、ゆっくりと押し開く。




扉の向こうには、赤い世界が見えた。

黒い煙と、炎。人間の悲鳴……

茶色い鉄と埃の世界は、そこから掻き消えていた。


絶句する美耶子に、幸子は両手で顔をかきむしるようにして笑いかけた。



「私はもうずっとこの世界を彷徨っているわ。その途中でこの二人と、あなたに遭ったの。

 色々試して、探して、調べて、分かった事が今の話よ。

 得したでしょ?探偵さん。自分でやる手間が省けたわ」


「……何故、こんな事が……」




「あの女だ!あの女が蕎麦太郎達を利用して、魔術をかけたんだ!」



わめく田中が幸子を押しのけ、扉を閉じようと取っ手を掴んだ。





その瞬間、扉の向こうから……田中が触れている扉の、裏側から。

埃にまみれた、包帯の巻かれた太い腕が、ゆっくりと伸びてきた。

けして俊敏ではない腕の動きに、しかし、誰もが動けずに居た。

田中は、自分のそれよりもふた回りは大きい腕が……その先についた巨大な手が……

自分の両目に、親指と中指を突き入れるのを。唖然として見ていた。



最初に悲鳴を上げたのは田中ではなく、美耶子にしがみついている女の子だった。

次いで両目を潰され、眼窩に突き入れられた指で身を持ち上げられた田中が、間延びした「あーーーーー」という声を漏らす。

鉄の扉がめきめきと音を立てて破れ、田中を持ち上げた腕の主が、美耶子たちの居る浴場へ入ってきた。



埃まみれの、異形。汚れた包帯を全身に、めちゃくちゃに巻きつけた何か。

腕も足もがんじがらめにした身体は、芋虫のように胴をうねらせて床を這い、

田中を掴んだ右腕だけがかろうじて、包帯の塊から自由に伸びている。

目も鼻も口も空いていない頭部が気配を探るように揺れ、そして、

美耶子の顔を覗き込むように、迫った。



「……足が……立たないんだ……」



生きた人間のような、声。

包帯の奥から放たれた穏やかな声に、美耶子が驚く間もなく。

異形の腕は田中の眼窩から指を引き抜き、抉り取った眼球を、田中の口に叩き込んだ。

歯の砕ける音と、喉を拳が押し開く音。

声もなく四肢を痙攣させる田中の姿に、美耶子はようやく床に転がったパイプを……

手錠を外すために、田中が外してくれたパイプを拾い上げ、振りかざした。



「彼らが、奪った……」



異形の顔が、美耶子を『見た』まま、言った。

パイプを振り下ろそうとした美耶子の動きが、一瞬止まる。

だが、次の瞬間には目の前の包帯まみれの頭部を、一撃していた。

鈍い音がして頭部が床に落ち、数秒してから、包帯にどす黒い血が滲む。

もう一撃、とパイプを振り上げた時、美耶子は突然足をすくわれ、床にこめかみを強打した。

美耶子にしがみついていた女の子が短い悲鳴を上げて跳ね飛ばされ、壁際で泣き出す。

いつの間にか田中の喉から引き抜かれた異形の腕が、美耶子の足にかかったままの手錠を掴み、持ち上げていた。

片足を高く持ち上げられた姿勢で、美耶子はそれでも、取り落としたパイプに手を伸ばそうとした。



「ぼくの足を、奪った」



異形が……恐らくは、コーイチが、変わらぬ穏やかな声で、言った。

手錠をつり上げ、美耶子の身体を引き上げていく。

肉に食い込む鉄の輪に苦痛の声を上げる美耶子に、コーイチは包帯の奥から声を投げる。



「だから、復讐しているんだ……何度も何度も、復讐しているんだ……」



美耶子の足が、静かに床に下ろされると同時、すぐ隣で田中の顎が叩き割られる音が響いた。

重い拳が何度も田中に叩きつけられる。

血飛沫を顔に受ける美耶子の腕を、それまで立ち尽くしていた幸子が掴んで引き寄せた。



「逃げるわよ!立って!」



幸子は美耶子と女の子の腕を両手で引き、扉の向こうへ連れ出した。

背後にコーイチが田中を叩き潰す音を聞きながら、そこかしこに火の手が上がった赤い世界を走り出す。

そこかしこで上がる悲鳴に、美耶子は幸子に怒鳴った。



「何故こんな滅茶苦茶な事が起こってるんですか!この燃えてる世界は、何!?」


「屋上で職員達が集団投身した、当日の光景よ!

 私達は今、過去に居るの!」


「だから何故そんな事に!!幽霊や怪奇現象は未だいいです!タイムスリップなんて……理解の範疇を超えてます!」


「因果は全部一緒よ!死人が歩き回ってるのも、現在と過去がつながってるのも、全部原因は同じ!

 東城 環が患者達に作らせた思念の塊……『神』が起こしてる現象!」



曲がり角を曲がった瞬間、幸子の身体が大きな何かにぶつかり、転倒した。

美耶子と女の子の手を掴んだままだったために、二人をも巻き込み床に崩れる。

尻餅をついたまま顔を上げた美耶子は、目の前に立っている男の顔に、

思わず笑顔で叫んだ。



「先生ッ!!会いたかっ……」


「皆殺しだ」



底冷えのするような蕎麦先生の言葉に、美耶子の顔から一瞬にして笑顔が消えた。

三人の女の目の前に……蕎麦先生の背後に、ケンスケと、人形で出来た脳神が歩いてくる。

蕎麦先生は口を開けて唖然としている美耶子の手をとり、凍てついた表情のまま、言った。



「僕達全員が、自分の『神』に願った事だ……この病院の連中を、皆殺しにしたいと。

 何度も何度も、殺しても殺しても終わらない、永遠の業苦を与えたいと。

 ……その願いが叶ったから……この病院では、過去と現在が混ざっているんだ」


「『神』……『神』って……先生……?」


「『脳神』」



「僕が、画用紙に描いていた神様だ」……と。

蕎麦先生は、静かに笑った。
















 

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