「先生……今……何故『分かった』んですか……?」
 
 
 
しゃがみ込み、頭を押さえ続ける蕎麦先生に、美耶子が訊いた。
 
陽の光が差し込んだ灰色の空間には、風の音と、二人の呼吸音だけが響いている。
 
美耶子はゆっくりと立ち上がりながら、窓の外の炸裂した植木鉢を見る。
 
 
 
「あの植木鉢、音も無く降ってきたのに……何故、私に当たるって思ったんですか……?
 
 私が覗き込んでた窓以外に……外が見える場所なんて、無いのに」
 
 
 
言いながらもう一度視線を室内に戻すと、蕎麦先生は這いつくばるようにして頭を両腕で抱え込んでいた。
 
慌てて駆け寄る美耶子がその肩に手を伸ばした瞬間、蕎麦先生の白い指がバリッ!と音を立てて黒髪をむしり取る。
 
小さく声を上げた美耶子の目の前で、蕎麦先生はむしった髪を掌で床に叩きつけ、息をついた。
 
 
 
「……見た事があるんだ」
 
 
「えっ」
 
 
「窓から首を出した人が、降ってきた何かに頭を割られるのを……
 
 まるで、ギロチンにかけられた囚人のようだった。頭を割られた瞬間、部屋の内側に伸びていた体が動かなくなる……
 
 ……伸びきった死体を、私は、確かに知っていた。君も、そうなる、気がしたんだ」
 
 
「それって、いつの話ですか?」
 
 
 
両手で床を押し、身を起こしながら蕎麦先生が美耶子を見る。
 
 
 
「多分……ここに居た頃だ。ああ、そうだ。さっきと同じ……そこの窓で、人が死んだ。
 
 今思い出したよ。女性が、そこで死んだんだ。だから窓から身を乗り出す君を見て、連想したんだろう」
 
 
「……先生、人が事故死するようなシーンを見て……今まで忘れてたんですか?」
 
 
「事故死と言ったか?」
 
 
 
立ち上がる蕎麦先生の言葉が、美耶子の耳を冷たく撫でた。
 
蕎麦先生は植木鉢を落とした何者かが居るかもしれない頭上を見上げながら、記憶を辿るように目を細める。
 
その表情は少し苦しげで、しかし、ほんの僅かに、望郷じみた色が混ざっていた。
 
人死にの話を、しているというのに……
 
 
 
「私は恐らく、苦痛に満ちた過去から自分の心を守るために、無意識に記憶を封印していたのだろう。
 
 覚えていたのは白い部屋に閉じ込められていた事と、それにまつわる細々としたイベントだけだ。
 
 だが……確かに見覚えがあるんだ。この重苦しいエントランスホールも、その窓のエピソードも」
 
 
「記憶が、戻ってきた?……先生、それで、事故死じゃないって言うのは……」
 
 
「そこで死んだ女性は、カオリさんと言う」
 
 
 
はっきりと人名を口にした蕎麦先生に、美耶子が唾を飲む。
 
天井を見つめたまま蕎麦先生は両腕を広げ、何か確固たるものを掴んだかのように、しっかりとした口調で続けた。
 
 
 
「継続的な治療が必要なレベルの精神病を患っていたが、元はこの病院の患者じゃなかった。
 
 未だ回復の見込みがある頃、別の病院の別の医師にかかっていたが……
 
 昭和のスト騒ぎの時に、彼女の病院も大規模なストを行ってね。何週間もほったらかしにされたんだ。
 
 それが原因で致命的に悪化し、見捨てられるようにここへ移された」
 
 
「……酷い話」
 
 
「ああ。ただ、この経緯は本人の口から聞いたものだし、話し相手としてはしっかりした人だったな。
 
 受け答えにも問題は無かったから、私はよく色んな話を……」
 
 
 
言いかけて、蕎麦先生は思わず目を見開いた。
 
自分の口から出た言葉を疑うように、視線を美耶子に戻し、唇を撫でる。
 
そうだ。そんなはずはない。蕎麦先生がカオリさんと頻繁に話をしていたなんて、わけがない。
 
何故なら蕎麦先生は、白く明るい光に満ちた部屋に、独り、永遠のような時間を閉じ込められていたはずなのだ。
 
……掘り起こした記憶が、保持していた記憶と噛み合わない。
 
 
 
「どういう事だ……?私は、独りぼっちだったはずだ。幽閉され続けていたはずなのに……」
 
 
「先生、とりあえずカオリさんの事を思い出せるだけ思い出しましょうよ。
 
 片っ端から思い出していけば、何か分かるかも」
 
 
 
元々二人がこの病院へ来たのも、蕎麦先生の過去を掘り起こすためなのだ。
 
植木鉢を落とした何者かを警戒しながら、美耶子はトランクから魔よけの塩を取り出し、
 
風に飛ばされないように注意して部屋に線を引き始める。
 
一方蕎麦先生は腕を組み、美耶子を見つめながら、少し間を置いて、そうだな、と呟いた。
 
掘り起こした記憶は、確かに蕎麦先生自身の内から出たものだ。真実には違いないだろう。
 
息を吐き、頭の中を探る。思い出せるだけの事を、総て吐き出してしまおうと。
 
 
 
「……カオリさんの名字は知らない。何年も続いた劣悪な治療のせいで酷く痩せて、髪は無かった。
 
 声は優しかったが、いつも怖い顔をしていたよ。怒ってるわけじゃない。まるで……そう、死体のような顔だった、という意味だ。
 
 まだ十代だと言っていたが、私には正直、老人にしか見えなかったよ」
 
 
「……」
 
 
「病気の名前は知らない。ただ、階段を昇り降りできないし、箸も持てないと言ってた。
 
 私が…………彼女に付き添って……庭を、歩いていると……」
 
 
 
白い部屋の幽閉と矛盾するエピソードになると、蕎麦先生の歯切れが悪くなる。
 
そんなはずはない、認めたくない、という感情が顔に露骨に出ていたが、美耶子は黙って待つ事で回想を促した。
 
既に塩の線は、二人の周囲と、階段をそれぞれ囲むように引かれている。
 
とりあえずは、蕎麦先生が過去を語る舞台は整えられていた。
 
 
 
「……そう……庭を歩いていると、山口がちょっかいを出してくるんだ」
 
 
「え、誰?」
 
 
「病院の職員だ。雑草を刈ったり床を掃除したりしていた。あぁ、思い出したぞ、あの……クズめ。
 
 患者をモップで殴りつけるような奴だった。私とカオリさんを見つけるたびに汚れたバケツの水を引っ掛けやがるんだ。
 
 クズと言えば、河合もいたな。子供の患者をトイレに『誘拐』して悪戯しやがる変態だ。他にも尾尻や田中という奴がいて……」
 
 
 
炸裂した植木鉢をきっかけに、蕎麦先生の封印されていた記憶が、とめどなくあふれ出て来る。
 
美耶子は蕎麦先生の語る話を聞きながら、ふと、今更ながら、これで良いのだろうか、と不安になった。
 
蕎麦先生がいつこの精神病院を出たのか知らないが、少なくともそれから数十年は経過しているはずだ。
 
その間、全く思い出される事のなかった記憶が、今、一気に蘇ってきている。
 
……その記憶の中には、きっと、厳重に閉じ込めておかなければならなかった危険なものもあるはずだ。
 
ひとつひとつ、時間をかけて思い出さなければならない、劇薬のような記憶が……
 
 
 
「カオリさんを殺したのは山口達だ」
 
 
 
突然耳を突き刺した言葉に、美耶子の肩がびくりとはねた。
 
蕎麦先生はズカズカと先程美耶子を引き抜いた窓に近づき、割れた植木鉢を断罪するように指差す。
 
 
 
「カオリさんがこの窓から身を乗り出すのを知っていて、上から植木鉢を落とした。
 
 直撃したのは災難だった。手口自体は稚拙なものだったのに、上手く行ってしまった」
 
 
「身を乗り出すのを知っていた……?」
 
 
「多分、アレだ」
 
 
 
蕎麦先生の指先が、植木鉢の脇に転がっている肉片を差す。
 
美耶子が窓枠と共に蹴り飛ばし、潰してしまった動物の死骸だ。
 
しかし、美耶子は眉を寄せて訊き返す。
 
 
 
「アレだ、って……カオリさんの事は昔の話ですよね?
 
 あの何かの死骸、さっき私が潰しちゃったんですけど……」
 
 
「カオリさんは生き物が好きでね。どうやってか知らんが、ネズミを捕まえて飼ってたんだ。
 
 カオリさんが亡くなった時、植木鉢の残骸に混じって、そいつの死体が潰れて落ちていた。
 
 ……カオリさんと私がこのエントランスホールに居る時に、山口が白々しく言ったのさ。
 
『おい、あそこに落ちてるの、お前のネズミじゃないか?』とね」
 
 
 
蕎麦先生がその時の山口の仕草を真似て、窓枠の脇に立って外を手で示す。
 
まるで、身を乗り出して見てみろ、と勧めているかのような姿勢だ。
 
蕎麦先生はその姿勢のまま拳を握り締め、壁に押し当てた。
 
 
 
「悲鳴を上げて窓から頭を出したカオリさんが、次の瞬間には血を流して動かなくなっていた。
 
 山口は一度噴き出すように笑ってから、大騒ぎで医師達を呼びに行ったよ。
 
 ……事故という事になったが、他の患者が、山口の同僚の河合がずっと屋上で植木鉢を抱えていたのを見ていた。
 
 山口がネズミを潰して、庭に置き去りにしたのもな。
 
 勿論私達患者の証言など、誰も聞いちゃくれなかったがね」
 
 
 
一連の話を聞いた後、美耶子は改めて、自分が蹴り飛ばした肉片に目をやった。
 
……あの肉片は、封印された窓の、木材の奥に隠されていた。
 
カオリさんの時とはやり方が違うが、美耶子は結果的に肉片をダシに窓を覗き込み、植木鉢に潰されかけたのだ。
 
あの死骸は、ネズミのものなのだろうか?
 
だが確認しに外に出ようものなら、屋上から何者かの、殺意の篭った視線を浴びそうで、窓枠越しに視線をやる事しか出来ない。
 
 
 
その視線を、蕎麦先生が、手で塞いだ。
 
背後から突然目隠しをされた美耶子が「えっ」と声を上げると、蕎麦先生の底冷えのするような声が、耳元に吹きかけられた。
 
 
 
「どういうつもりだろうな。この植木鉢を落とした輩は。
 
 まるで、私にカオリさんの死を思い出させるために、こんな演出をしたようじゃないか。
 
 そして、私はまんまと、忌々しい記憶を思い出し始めている」
 
 
「……せ、先生……」
 
 
「何だ?」
 
 
「その……この、今日落ちてきた植木鉢は……『心霊現象』なんでしょうか……?」
 
 
 
突然視界が開け、蕎麦先生の白い顔が飛び込んできた。
 
 
 
「ポルターガイスト現象の類、かも知れない。
 
 あるいは我々以外の生きた人間が、この島に居るのかも知れない。
 
 いずれにせよ、私は戦わねばならない。これから……あそこへ、降りてゆく」
 
 
 
階下へ続く階段を手で示す蕎麦先生に、美耶子は無言でトランクと、リュックサックを開けた。
 
蕎麦先生の視線を受けながら護符が入った札入れをズボンのポケットに押し込み、
 
バットを取り出し、釘を金槌で打ちつけ始める。
 
カンカンと音を立てながら、美耶子が言った。
 
 
 
「これで、心霊からも生きた人間からも、身を守れます。
 
 先生……山口達は、何でカオリさんを殺したんですか?」
 
 
「君は虫を殺すのに理由を考えるか?」
 
 
 
無茶だ。そんなのは答えにならない。
 
蕎麦先生の返事を受けて、美耶子はきゅっと唇を噛んだ。
 
殺人者の自分にだって、ちゃんと動機はあったのだ。
 
人間を虫のように、何も考えずに殺せるわけがない。
 
 
 
そんな美耶子の考えを見透かしたように、蕎麦先生が腕を組み、目をそらした。
 
 
 
「君は凶暴ではあるが、健全だな。生まれた時代が良かったのもあるだろうが……
 
 人は笑って、赤の他人を殺す事ができるんだ。特にこの場所では、精神病患者は人間じゃなかった。
 
 しかも、今よりもずっと、健常者と精神病患者の線引きはあいまいだった……
 
 立派な人格を持ち、良識を保持している患者達が何人もいたよ。だが彼らは、決して人間扱いされなかった」
 
 
「その人達が悪いんじゃないです。医者と、職員達が狂っていたんですよ」
 
 
「そうだよ。何故なら、狂人は自分が狂っているとは、中々認識できないからな」
 
 
 
釘を打ち終わった美耶子が、釘バットを持ち上げ、トランクを提げて蕎麦先生に向き直る。
 
美耶子の目には怒りが、蕎麦先生の目にはそれよりも強い負の感情が、ちらちらと宿って揺れていた。
 
 
 
「カオリさんは面白半分に殺されたんですね。虫同然に、扱われて」
 
 
「ああ。そういう事は、戦後の日本でもままあった事だよ。
 
 精神病患者を虐待して死亡させたり、病原菌を注射して人体実験のサンプルにしたり、
 
 とにかく精神病院に入るような奴には人権が無い。そう信じていた連中は多かった」
 
 
 
そしてその欺瞞が何か悪しきモノを生んだのなら、それを突き止め、過去に決着をつけねばならない。
 
強力ライトを構えた蕎麦先生を先頭に、二人は白いクレヨンの散乱する階下へ、降りていった。
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
……なんて事。
 
薄暗い部屋で山積みのファイルを捲っていた修道女は、椅子の上で細い足を組み替えた。
 
蕎麦先生の養母が遺した宗教施設。そこの管理人であるエリカは、先程から一つのファイルを何度も読み直している。
 
タイトルに『脳神事件(のうしんじけん)』と記されたそのファイルは電話帳のように分厚く、手垢がたっぷりと染み付いていた。
 
浄霊師である蕎麦先生の養母は、生前様々な心霊的事件に関与し、その詳細を書き記し、ファイルして来た。
 
後進に知識を遺すためだったが、『脳神事件』のファイルは、彼女の後継者であるエリカも初めて読む。
 
山積みのファイルが収納された棚の、一番奥の、一番端に隠すように置かれていたためだ。
 
エリカが蕎麦先生に渡す情報を求め、そのファイルを手にしたのが2時間前。
 
それ以降、エリカはファイルの文面を反芻するように何度も何度も読み続けているのだ。
 
 
 
「脳神。私はその怪異を、あえてそう名づけた……」
 
 
 
ファイルを音読しながら、エリカはページを捲る。
 
窓の外は既に薄暗く、雨粒がバシバシと窓を叩いている。
 
 
 
「神、というものは、所詮人が作り出す想像力の結晶に過ぎない。
 
 それを人々が信じ、崇拝する事で、年月と共に神秘的な力を発揮する。
 
 ブッダも、キリストも、この世の誰一人さえその存在を信じなかったなら、完全な虚構に成り下がっていただろう。
 
 ……つまり神とは、人間が作り出し、力を与えるものなのだ。人間の『脳』が、『神』を作る……」
 
 
 
エリカの声が部屋の薄闇を這い、エリカ自身の耳に戻ってくる。
 
コップに満ちたドンペリが、光の加減で腐ったような色に染まっていた。
 
 
 
「かの精神病院で作り出された『脳神』は、とうとう私の手では調伏出来なかった。
 
 私の愛する息子、蕎麦太郎が『脳神』と再び出遭う事無く、一生を送ってくれればと思う。
 
 だが、しかし……きっと、あの子は対決する事になるだろう。
  
『脳神』はいずれ、あの島から外に出てくる。
 
 哀れな、愚かな被害者達を巻き込んで、世に災厄を撒くだろう。
 
 白い紙に白い絵を描き続ける子供達が、一体何人出る事になるのか……自分の非力さを、呪うばかり……」
 
 
 
……知っていた。
 
エリカの先代、蕎麦先生の養母は、今回の事件を予期していた。
 
脳神……
 
 
 
エリカは暫くその呪詛のような響きを繰り返していたが、
 
やがて思い出したように、机の上の携帯電話に手を伸ばした。
 
蕎麦先生の衛星電話の番号を、細い指でプッシュする。
 
 
 
数秒後、エリカの携帯電話からネズミの鳴くような声が響き、自然に電源が落ちた。
 
 
 
 
 


 

前のページへ 目次 次のページへ→

inserted by FC2 system