二人は食事を済ませた後、台所で沸かした湯を風呂場に持ち込み、軽い行水を行い、
 
寝所以外の総ての明かりをつけたまま布団に入った。
 
寝転ぶ二人の横腹に、半開きにした扉から廊下の明かりが僅かに差す。
 
布団の位置は蕎麦先生が雨戸側、美耶子が扉側だ。
 
 
 
釘バットを枕元に置いた美耶子が、早々に寝息を立て始めた蕎麦先生の方に、ころりと寝返りを打つ。
 
…シドモ様という、得体の知れないモノから総ての住人が逃げ去った、村。
 
そこに目の前の男と二人きり、遠い雨音の中横たわっている。
 
 
 
この状況が美耶子には、内心酷く不安だった。
 
普段なら絶対にしない事だが、布団ごと蕎麦先生に寄り添い、その手にそっとしがみつく。
 
 
 
(雨戸と、木戸、それに塩の線か……ヤダなぁ、外に何か居るような気がする…)
 
 
 
頼りないバリケードのすぐ向こうに、嫌なモノが群がっている、イメージ。
 
廊下に続く半開きの扉さえ、何となく視線をやるのが嫌だった。
 
 
 
美耶子は、殺人者である。学生時代に教師と祖父母、そして叔母を殺し、少年院に入った。
 
しかもその事を問い詰められると、恐らく多くの人々が生理的に拒否感を示すだろう、実に空虚な笑顔で、こう答える。
 
 
 
『そうよ。でも少年院に入ったから、もう【まっさら】でしょ』
 
 
 
この台詞を初めて聞いた蕎麦先生は、一瞬凄まじい嫌悪の表情を浮かべた後。
 
すぐにまぶたを切り裂かんばかりの、鋭い三日月を顔に浮かべ、美耶子の頭を撫でて言ったものだ。
 
 
 
 
『とんでもない。背中の四人は、もう取れないよ』
 
 
 
 
両肩に、腰に、人間の指が食い込む。錯覚。
 
美耶子は無意識に蕎麦先生の腕を、ぎゅっと強く抱きしめた。
 
 
 
…あいつらを殺した時、自分はどんな顔をしていたのだろう?
 
教え子と何度も遊んだくせに、初めてを受け取ったクセに、
 
奥さんにバレたからって万札4枚でお終いにしようとした、クソ教師。
 
脳味噌が軟化して、ワケの分からない宗教に自分達の金どころか、息子と孫の家まで寄付しようとしたボケ老害ども。
 
そいつらに米だのビールだのを持ってくたび、遺産をくすねとって行った、泥棒叔母。
 
 
 
『最後に思いっきり抱いて。先生。あたしを一生忘れないように』
 
『おじいちゃん。おばあちゃん。たくさんお金要って大変ね。神様に早く会えるようにしてあげる』
 
『叔母さん。そのお金、誰の?ずっとボケの面倒見てたお父さんの分は?』
 
 
 
殺意。敵意。だがそれらが胸の奥底から噴きあがる時、美耶子はいつも笑顔だった。
 
刃物や人を殴打出来る物を手にすると、頬が紅潮し、目がらんらんと輝いた。
 
 
 
「……………」
 
 
 
先生の腕をスポーツブラの胸に押し付けたまま。美耶子はわずかに、本当にわずかに。
 
『その笑顔』を顔面に滲ませた。
 
 
 
 
 
その瞬間、蕎麦先生の向こうの雨戸が、ガダン!と揺れる。
 
美耶子の肩が跳ね上がり、薄ら寒い笑顔が掻き消える。
 
雨戸はガダガダとひとしきり揺れた後、つっかえ棒になっている戸棚を押しのけることが出来ず。
 
何者かが濡れた地面を歩く、べしゃ、べしゃり、と言う足音が、風呂場の方へと流れていった。
 
 
 
…暫くして、浅く息をする美耶子の耳に。風呂場の窓が割れる騒々しい音が響く。
 
釘バットの存在も忘れひぃ、ひぃ、と妙な声を出し始めた美耶子に。
 
振り返ることすらせずに、蕎麦先生が言った。
 
 
 
「大丈夫だ。アレは、人間だ」
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
ぎゃぁあああ!と悲鳴を上げ、尻餅をつく。
 
悲鳴を上げたのは半開きの扉の向こうから、釘まみれのバットを振りかぶった下着姿の女が襲ってきたからで。
 
尻餅をついたのは、その女にタックルを喰らわせた男の足が、異臭と共に顎先をかすめたからだ。
 
 
 
懐中電灯を廊下に取り落とし、あわあわと情けない姿を晒している彼氏の腕を取り。
 
長いまっ黄色の髪をした、赤いバイカースーツ姿の女がわめいた。
 
 
 
「何だよ!てめーら何してんだよ!!危ねえだろ!!?」
 
「ここ、おたくのお宅?」
 
 
 
床に四つんばいになりながら「ハルルガルル」と威嚇する美耶子を押さえつけ、蕎麦先生が問う。
 
バイカースーツの女は「ちげーし!ちげーけど!」と彼氏を抱き起こそうとしている。
 
ちなみに腰を抜かした彼氏の方は、迷彩柄のカーゴパンツにタンクトップ。坊主頭にハート柄のバンダナを巻いていた。
 
 
 
二人の若い侵入者の態度といでたちに、蕎麦先生が美耶子を踏みつけたまま立ち上がり、ハハン、と顎に手をやる。
 
 
 
「…肝試し」
 
 
 
つい、と指差すステテコパンツ一丁のおっさん。
 
そーだよ!と返すバイカースーツの女の腕を取りながら、ようやく坊主頭の彼氏が口を開いた。
 
 
 
「コ…コンビニで買ったエロ雑誌に、この村がホラースポットつって載ってたんスよ。俺らマジヒマだったんでぇ…」
 
「ふざけた連中だ。エロ雑誌も、君らもな。だいたい夜の山道を、しかも雨の中登ってくるなんぞ論外だ」
 
「や、俺らのバイク超ヤバいんで。そこらのヤワなんじゃなく、マジヤベー道でもへいちゃらつーか…」
 
 
 
軽薄そうな外見で軽率な台詞を吐く坊主頭は、這いつくばったままの美耶子をチラチラ見る。
 
蕎麦先生がその視線に気付き、臭い足をようやく美耶子から持ち上げた。
 
そのまま指先で、ぼりぼり逆の足のふくらはぎを掻く。
 
目を三日月にして無言で見つめてくる蕎麦先生に、坊主頭はばつが悪そうにバンダナをいじくり、続ける。
 
 
 
「なんかぁ、ヤベースポットでぇ、住民が全員変死した呪いの村っつー話でぇ…
 
 俺ノロイとか信じねースから!マジ笑っちまうから!とか思ってたら、この家灯り点いてたっしょぉ?
 
 ユーレイなんか怖くねぇ!って、突撃したワケで……あ、マジスンマセンした。風呂場の窓…」
 
 
「失敬な雑誌だな。まだ4人しか被害に遭っとらん」
 
 
「4人死んだんスか?!うわーこらマジモン引いたべ?」
 
 
 
最近の若者言葉(一部)は難解すぎる。ナウでヤングだ。
 
相手がどうやら凶漢でないと知れると、釘バット美耶子はぶぜんとした様子で室内に戻り、
 
意味もなくホッケーマスクをつけたり外したりし出した。
 
本当は何か着て豊満すぎる肉体を隠したいのだが、案の定着替えは持参していない。
 
 
 
で、あんたら何なの?
 
幾分か落ち着いたらしい若者二人の問いに、蕎麦先生はステテコの内側をボリボリ掻きながら答える。
 
 
 
「この村の怪奇現象の調査を依頼された者だよ。私は東城 蕎麦太郎、神学及び民俗学の研究者だ。
 
 あっちの彼女は牛袋 美耶子……まぁ、相棒みたいなもんだ」
 
 
「あ、シゲです。こっちナナコ。よろチィーっす!」
 
 
 
何語だ。本当に。
 
異様な挨拶をする坊主頭改めシゲに、蕎麦先生はとりあえず笑顔でよろチィーっす!と返しておいた。
 
ホッケーマスクをかぶった美耶子が、何を言うでもなくスタンガンをバチッ!と光らせた。
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
紺のズボンと黒い靴下。白いカッターシャツに、ワインレッドのネクタイを締めた蕎麦先生。
 
キチッとした身なりで若者にマルちゃんの『緑のたぬき』を差し出す彼の隣には、
 
相変わらず下着姿で、緑色の目だし帽をかぶったり脱いだりする、美耶子。
 
ちゃぶ台を挟んで向かい合う男女二組の間には、当然妙な空気が流れている。
 
 
 
シゲとナナコは存外キチンと「ありあとやっす!頂きます!」と合掌してから、箸を割ってカップそばを啜り出した。
 
美耶子以上に山を舐めていた二人は、懐中電灯とバイク以外は殆ど何も持ってこなかったらしい。
 
うめーうめーと繰り返すナナコの隣で、シゲがそばを喉に詰まらせながら、ゴホンゴホンと蕎麦先生に話しかける。
 
 
 
「正味な話ぃ、どうなんスかね?この場所って」
 
「どう、と言うのは?」
 
「マジヤバなんスか?そりゃぁ不気味っちゃ不気味っスけどぉ、絵ヅラ的に?みてーな」
 
 
 
汁を啜るシゲに、ようやく美耶子が口を開く。目だし帽の奥から。
 
 
 
「マジヤバです。何せ我々が呼ばれるぐらいですから!」
 
「へー。有名なんスか。美耶子さん達」
 
「業界では中々の腕っこきで…」
 
「業界って?霊感商法業界?」
 
 
 
怪奇事件業界です!と美耶子は反論するが、正直どちらも同レベルに胡散臭いと蕎麦先生は思う。
 
足を崩しながら、しかし、釘を刺すように、
 
 
 
「夜中の調査は危険だから、朝を待っている。君達も今日はこのまま泊まって行きなさい。
 
 山道もそうだが…この村を今、うろついてはいけない」
 
 
 
抑揚の無い声で言う蕎麦先生に、シゲ達が同時に箸を止める。
 
室内の人間が黙ると、外の風雨の音が妙に大きく感じた。
 
 
 
「この村には、何かが居て。村人達はそいつに襲われて逃げ出したのだ。
 
 だから我々は雨戸を閉め、塩の線を引き、この家に立てこもっていた。
 
 …相手の正体が、分からない。心霊かも知れんし、そうでないかも知れん」
 
 
 
だから、一緒にいろ。
 
 
 
若者達はそんな蕎麦先生の言葉に、明らかに動揺した様子で小声でぼそぼそ相談し出した。
 
無人のはずのホラースポットに肝試しにきたら、大人が家を封鎖して閉じこもっていた。
 
そいつらは正にホラースポットの専門家のような怪しい連中で、外に出るのは危険だと言う。
 
 
 
平時なら鼻で笑うような話だが、風雨の山中の村では、そう出来ない、雰囲気があった。
 
 
 
「…確かによぉー、ちょっとヤバいかもなぁ。来る時もバイク滑ってマジ転びかけたってのもあるしよー…」
 
「ンだよ、ビビってんのかよ?ユーレイなんか居ねーつってたじゃん」
 
「ちげーって!ビビってねーけどよ!こういう時、映画なんかじゃ…」
 
「エーガ?」
 
 
「そうだよ!映画なんかじゃこーいう人らの事信じねーでよ!『化けモンなんかいねーぜ!構わねーから帰るぜ!』とか、
 
 そーいう台詞言う奴が真っ先に殺されるじゃんよ!俺はおめーに死んで欲しくねーんだよ!!」
 
 
 
シゲ…!と感極まったように絶句するナナコを、大人二人は物凄くカユい思いで眺める。
 
 
 
 
 
そんな室内に、唐突に、雨音に混じって遠くから何かの『音』が入り込んできた。
 
互いに抱き合う若者達は気付いていない。蕎麦先生が僅かに腰を浮かせ、美耶子がスタンガンに手を伸ばす。
 
 
 
…それは、悲鳴だった。まるでサイレンのように長く、引き伸ばされた悲鳴。
 
若者達がそれに顔を上げたときには、べしゃ、べしゃ、という足音が、家の傍まで迫って来ていた。
 
あああああ、と叫ぶ何かが、やがて雨戸を大きくドン!と叩き、こじ開けようとガダガダ揺らし始める。
 
シゲの時とは比較にならない勢いで、雨戸が壊れるかと思うほどの揺らし方だった。
 
 
 
その時、身構えた蕎麦先生達の脇をすりぬけ、シゲとナナコが血相を変えて雨戸を封じるバリケードに掴みかかった。
 
戸棚をどかし雨戸を開けようとしている二人に、美耶子が慌てて怒鳴る。
 
 
 
「ちょっと!何してるんですか!?」
 
「ありゃナオキだ!ナオキの声っスよ!何で……来ないって言ってたのに!!」
 
 
「ナオキ!今開けるよ!!」
 
 
 
がらりと開け放たれた雨戸から、雨粒と泥、そして黒いタンクトップと帽子を被った男が倒れ込んで来た。
 
雨戸の締まった室内に居たせいで気付かなかったが、外の雨は本降りになっていた。
 
シゲとナナコが、ナオキという帽子の男を抱き起こす。
 
 
 
「どうしたんだよ!お前、何でここに居んの!?ホラースポットとかバカくせーって言ってたじゃん!!」
 
「ユミがぁぁぁ!!ユミがぁああああ黒いのにぃいいいいいい!!!!!!」
 
 
 
取り乱すナオキをまたぐように、蕎麦先生がテルテル坊主の下がったトランクを手に、風雨の中に進み出る。
 
大型の強力ライトの光が周囲を照らすが、何の姿も無い。
 
シゲがナオキの頬を平手で叩き、怒鳴るように問い詰める。
 
 
 
「落ち着け!ユミがどうした!?お前らホテル行くっつってたな!気が変わってやっぱついてきたのか!!」
 
 
「…ユミが…ユミが来たいって………シゲ達が先に行ってるから、おどかしてやろうって……
 
 お前ら何で居ねぇんだよぉおおお!全然会えなくて、ヤバいトコ入っちまったじゃねえかああーーーー!!!!」
 
 
 
ナオキの泣き言に、蕎麦先生が振り向きざまに室内の美耶子に向かって、塩の瓶を投げて寄越す。
 
倒れこんだナオキが、塩の線をまともに吹き飛ばしていた。
 
 
 
「肉袋クン!雨戸を閉めて塩の線を引きなおしてくれ!私はユミという子を探してくる!!」
 
「先生!コレ!!」
 
 
 
呼び名に不平を言う事も無く、美耶子が蕎麦先生に塩の瓶の代わりに、スタンガンを投げ渡す。
 
一瞬迷った表情を浮かべた蕎麦先生が、スタンガンを受け取り、そのままズボンのベルトに突っ込んだ。
 
案内しろとナオキを掴み起こしたが、ナオキは凄まじい勢いで嫌だ!殺される!!と家の中に逃げようとする。
 
シゲがまた一発ナオキの頬を叩いたが、今度ばかりはナオキも収まらなかった。ちゃぶ台にすがり付き泣き始める。
 
 
 
「…仕方ねぇス、先生、俺達でユミを探そう!ナオキ!ユミを何処に置いて来たよ!?」
 
「い、い、一番向こうの屋敷だよぉ!鳥居が立ってる家に入ったら、黒いのが…黒いのが…!」
 
 
 
ナオキの指差す方向に、蕎麦先生がライトとトランクを手に駆け出す。
 
その背を懐中電灯で照らし、続くシゲ。風雨が強く、二人の身を叩く。
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
灯りの無い、無人の家々の間を走り抜け、村の最奥へと辿りついた蕎麦先生は、正に絶句した。
 
確かにそこには鳥居のようなモノがあり、巨大な屋敷のようなモノがあった。
 
だが『まとも』ではない。
 
 
 
鳥居の形をしたモノは長さの合わない太い丸太を直に地面に突き刺し、
 
その間を大小さまざまな板を太い釘で継ぎ足しに継ぎ足して鳥居の形にしている。
 
しかもライトで照らし出したその板の上には、何のつもりか溢れんばかりの人形が放り上げられていた。
 
種類の違う、子供用の人形。人間の形をしたモノもあるし、ハローキティーやテディベアのようなぬいぐるみも混じっていた。
 
 
 
そしてその鳥居の向こうにあるのも『屋敷』ではない。
 
巨大な家はシルエットだけ見れば立派な屋敷にでも見えるのだろうが、
 
それは鳥居以上の外法の建物だった。
 
 
 
どこから集めてきたのか知れぬような、全く統一性の無い木材、トタン、鉄板、柱を滅茶苦茶に組み合わせ、
 
やはり釘やネジで手当たり次第に打ち付けただけの、最早入るのも危険な代物だ。
 
それが巨大に空に向かってそびえ立ち、しかし風雨に軋みすら上げずに存在している。
 
 
 
だが、蕎麦先生が最も驚愕したのは、その『屋敷』の周囲を『屋敷』それ自体とは全く対象的に。
 
至極正確に、等間隔に植えられた樹木が取り囲み、その間にいくつもの注連縄が張り巡らされていた事だった。
 
 
 
こんな場所が、まともなわけが無い!
 
蕎麦先生は注連縄の向こうの、開けっ放しにされた巨大な木扉を睨む。
 
玄関扉だろうそれには、どんなバカにでも見えるほど大量に、黄ばんだ札がべったりと貼り付けられていた。
 
 
 
「素人目にも、立ち入ってはならぬと分からなかったのか…!」
 
「せ、先生!それ……!?」
 
 
 
蕎麦先生の脇で、シゲが声を上げる。
 
彼の懐中電灯が照らし出す先では、テルテル坊主の口が独りでにめりめりと裂け、
 
しまいには袋の内で上顎と胴体が分離した。
 
自滅するほどの笑顔を浮かべたテルテル坊主に、蕎麦先生がシゲの肩を突き飛ばす。
 
 
 
「君は皆の所に戻れ!私が一人で探す!!ユミという子の特徴は!?」
 
「ナニ言ってんスか!ユミだって俺のダチだし…」
 
「素人は邪魔だッ!!!特徴を教えろッ!!!!」
 
 
 
深い筋をいくつも顔に浮かべた、夜叉のような顔をする蕎麦先生。
 
シゲがぐ、と口を引き結び、少しばかり唸ってから、視線を逸らして答える。
 
 
 
「黒髪のロング。背の低いコっスよ…」
 
「善し、シゲ!」
 
 
 
皆を守ってやってくれ。
 
顔もやらずに注連縄をくぐり、中に入っていく先生を。
 
クソッタレ!と叫ぶシゲが、見送った。
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
『屋敷』の中は、まるであなぐらのようだった。
 
無数の板切れやトタンに囲まれた屋内は異常に広く、じっとりとした空気が篭っている。
 
下は地面そのもの、上は、はるか先を見上げれば、隙間だらけの板の群。
 
強力ライトの光が向こうの壁に届かぬほどの、だだっ広さだった。
 
 
 
蕎麦先生はトランクを立てた膝で支え、中から無数のプラスチックの球体を取り出す。
 
ゴルフボール大のそれをポケットに突っ込み、一つを手に残して、数回激しく振った。
 
シャカシャカと音がして、球体がぽぅ、と青く発光する。
 
発電するモーターを内蔵した、特製のライトボールだ。
 
照らし出す範囲は半径一メートル弱と狭いが、安物モーター一つで30分は発光し続ける。
 
蕎麦先生はそれを入り口に落とし、周囲を警戒しながら屋内を歩き始めた。
 
 
 
歩きながらライトボールを振り、時折地面に落とす。
 
激しい雨音の響く屋内には、何も無い。ただ壁とも呼べぬ壁と、蕎麦先生から伸びた光の点線が在るだけだ。
 
 
 
こんな時、探し人の名を大声で呼ぶのは愚策であろうか。
 
何が居るか分からない場所で声を上げるのは危険だが、蕎麦先生は闇の中、光をいくつも携えている。
 
襲って来る者が居るなら、既に目をつけられているはずだ。
 
 
 
…ユミさん。そう呼ぼうとした矢先、蕎麦先生の強力ライトの光が、それを捉えた。
 
土の地面と、滴る雨粒。ただそれだけの視界に、不意に現れ出た、動くモノ。
 
うずくまり、小刻みに震える、黄色いキャミソールを着た…黒髪の、ダレカ。
 
 
 
蕎麦先生はライトボールを振り、発光するそれを、コロコロとその者に向かって転がした。
 
コツンと靴に当たる光る球に、震えていたダレカがびくりと跳ね上がり、おそるおそるこちらを見た。
 
 
 
…黒いロングヘアーの、目を赤く腫らした、少女。
 
強力ライトの光を外し、さらに一つライトボールを振った蕎麦先生が、それで自分の顔を照らし出し、問う。
 
 
 
「ユミさんですね?ナオキ君と来た…?」
 
 
 
ユミの顔が、震えたままみるみる喜色に満ちてゆく。
 
声も出せずに手を伸ばすユミに、蕎麦先生が足早に。
 
 
 
 
 
 
近づこうとした。足が。止まった。
 
こちらを見つめるユミの顔が、引きつり、みるみる恐怖に歪んでゆく。
 
視線は蕎麦先生の、背後だ。
 
蕎麦先生は目を細め、トランクの隙間に手を入れながら、来た道を振り返る。
 
 
 
 
 
確かに残してきた、青い光の点線が、消えていた。
 
一つ残らず。30分発光し続けるはずの、光が。
 
 
 
手元のライトボールが音も無く光を無くし、強力ライトまでが、チカチカと点滅し出した。
 
 
 
不味い!
 
闇に呑まれると思った蕎麦先生はトランクから予備の塩の小瓶を取り出し、胸に叩き付けた。
 
ガラスの割れる音。そのままユミに向かって走り出す。
 
強力ライトの光が消える瞬間、蕎麦先生の体が、ユミに倒れ込んだ。
 
胸の下でパニック状態でわめくユミを、暗闇の中抱きしめる。
 
雨音のほかに、何かが聞こえる。土を踏む、足音。
 
 
 
「落ち着いて…大丈夫だ、大丈夫………私と一緒に、出よう…」
 
 
 
指に触れる髪。小さな体をゆっくり抱え起こし、そのまま震える肩を抱いて、暗闇を睨んだ。
 
何かが、居る。足音のする方を見据えながら、息を殺す。
 
…雨音に、遠く雷鳴が混じり始める。足音は、次第に、次第に二人から離れて行くようだ。
 
 
 
 
足音が、走り出した。土を蹴る音。身構え、歯を食い縛る蕎麦先生の目に。
 
 
 
 
 
 
 
 
稲光に照らし出された、木扉を出てゆく、黒いロングヘアーが映った。
 
 
一瞬にして戻る暗闇の向こうで、少女の泣きじゃくる声が。遠のいていく。
 
 
 
「………」
 
 
 
蕎麦先生の胸に抱かれたそれは、もう震えていなかった。
 
じんわりと。腐った汚水のような何かが、それから染みだしてくる。
 
 
 
 
くそったれ。
 
呟いた蕎麦先生を、胸先の暗闇が呑みこんだ。
 
 
 
 


 

前のページへ 目次 次のページへ→

inserted by FC2 system