何だ、あれは。あの、死体のような女は、誰だ。
 
美耶子はトランクを手に、闇の中をひたすら走る。
 
ぼんやりと浮かぶ灰色のコンクリートの通路は、けしてまっすぐではなく、時折ゆるやかにカーブしていたり、
 
左右に軽くうねっている。
 
その変化はゆっくり歩くには気にならないが、走り抜けるには忌々しい障害として、美耶子の足の動きを妨げる。
 
背後からは、ぺたぺたと素足で床を踏む音が追って来ている。
 
その音の間隔はせいぜい早足程度のものだったが、全力疾走している美耶子の耳から、けして離れて消える事は無い。
 
振り返れば目玉の飛び出した顔が迫ってきそうで、美耶子は前を見据えたまま、走りに走った。
 
 
 
階段から、歩いて数分。それでエレベーターに着いた。
 
ならばこの通路は、走ればすぐに抜けられるはずだ。
 
とにかく地上に出て、電話で迎えを呼ぼう。病院から出れば、あの女ももう追ってこないかもしれない。
 
 
 
そんな事を考えていた美耶子の足が、突然もつれて転んだ。
 
壁に肩を強打し、うめきながら……美耶子は、その姿勢のまま硬直する。
 
 
 
目の前に、何かが落ちている。通路の真ん中に、肌色の物体が、蛇のように伸びている。
 
見覚えのある色……美耶子の脳裏に、天井を走るパイプから垂れる、包帯が浮かんだ。
 
 
 
蕎麦先生が話してくれた、コーイチおじさんの包帯だ。
 
首を吊る事をひたすら夢見た男の、遺物……
 
病院が閉鎖されてから、ずっと天井のパイプに張り付いていたそれが、今、美耶子の前に落ちている。
 
 
 
(そんなわけない!包帯の話をしていたのは、エレベーターのすぐ手前だった!もうかなり走ったはずなのに!)
 
 
 
包帯が自然に落ちたのだとしたら、もっと前の地点で見つかるはずだ。
 
誰かが包帯を、ここまで運んだのか?それともひとりでに、ここまで移動してきたのか?
 
美耶子が考えを巡らせている間に、背後から響く足音はすぐそばまで迫ってきていた。
 
早足で近づいてくるその音に、気配に、美耶子が唇を噛み、涙の粒を零す。
 
犬のような吐息が髪にまでかかった、瞬間、
 
美耶子は固めた拳を、その吐息の先に向かって突き出した。
 
 
 
やけくそになって振るった拳が、ぼきりと何かを砕く。
 
途端に指に鋭い痛みが走り、美耶子の胴に、細い二本の腕が絡みついてきた。
 
目の前に、あのおぞましい顔がある。前歯の折れたそれは、口の中にねじ込まれた美耶子の拳をがりがりと齧り、
 
皮をこそぎ、血を舐めとろうと舌を動かしていた。
 
 
 
ふっ、と意識が遠くなりかける。
 
床に押し倒され、同時に手からトランクが落ちた。
 
しっかり閉じずに引っつかんできたせいでトランクが開き、中から諸々が撒き散らされる。
 
自分の拳を噛まれる音を聞きながら目を閉じかけた美耶子が、不意に宙に浮くような感覚を覚え、
 
同時に拳を苛む痛みが消えた。
 
 
 
 
何事が起こったのか、思わず目を開けた瞬間。
 
美耶子は自分を抱きかかえる大きな何者かに、耳打ちされた。
 
 
 
「ボクハ、ホータイ」
 
 
 
 
                ◇◇◇
 
 
 
 
再び目覚めた蕎麦先生の唇の間から、小さな蜘蛛が這い出していった。
 
倒れたまま周囲を目で探ると、錆と埃の茶色い世界ではない。
 
薄暗い部屋に、格子のはまった窓から光が差している。
 
……そのまま暫くは、蕎麦先生は起き上がらなかった。
 
今まで過去の記憶の残骸に熱くうずいていた頭が、急にすっきりと落ち着いていた。
 
焦りも、恐怖も、微塵のストレスも感じない。
 
 
 
「コーイチおじさんは、包帯……包帯で足を腐らされたから……包帯が、因果……」
 
 
 
考えを口に出しながら、数度瞬きをする。
 
記憶の中で誰かが歌っていた歌詞。その意味を、反芻する。
 
 
 
「キヨミちゃんは、机……机に縛り付けられ、放ったらかされて、正気を壊された……机が、因果……」
 
 
 
ようやく、身体に力を入れる。
 
手で床を押し、軋む身体を、起こし始める。
 
 
 
「カオリさんは、暗闇……これは何だ……?カオリさんは……暗闇が因果のはずだ……
 
 苦痛の源……心霊となって、この場所に囚われるほどの因果……
 
 まだ、まだ思い出せないが……」
 
 
 
床の上に座り、息をつく。
 
そうして数秒黙ってから、蕎麦先生は背後を振り返った。
 
 
 
狭い部屋に、おびただしい数のマネキンが山積みにされていた。
 
光の差す窓から逃れるように、部屋の隅に死体のように折り重なる人形の群。
 
等身大の完全な人型をしたものから、トルソーや、手のひらに収まる小さなものまで、様々な種類のものが。
 
……蕎麦先生はその、何十という人型の影の中の一つを、じっと凝視した。
 
他の人形と同様に完全に静止したその影は、埃をかぶった女性型のマネキンに両手両足でしがみつき、硬い胸に顔を埋めていた。
 
 
 
「君が、最後の一人だ。僕がこの病院で深く関わった、患者達……
 
『ケンスケ君は人形』」
 
 
 
名を呼んだ瞬間、その人影はいともたやすくしがみついていたマネキンを放り出し、蕎麦先生を『見た』。
 
蕎麦先生とさほど変わらぬシルエットのそれは、薄暗闇の中でかりかりと歯軋りするような音を立て、
 
やがて蕎麦先生を指先で差した。
 
迷わず、蕎麦先生は同じ体勢で人影を指差し、言葉を連ねる。
 
 
 
「他人との接触を禁じられ、この人形の溢れる部屋に閉じ込められた人だ。
 
 僕達は皆、どのような環境で人が狂うか、どの方向に狂って行くかを身をもって検証させられていた。
 
 他人との接触に飢えた君は、人形に話しかけ、抱きつくようになる。その時間と経過を、何度も記録された」
 
 
 
まるで機械仕掛けの玩具のように、人影は首や手足を妙な方向にぐりぐりと捻り、蕎麦先生に這うように近づいてきた。
 
動じず、指差し続ける蕎麦先生の手を払おうとして、人影の手が虚空をなぎ、そのまま体が仰向けに倒れた。
 
床に肘やかかとを何度も打ち付ける人影の顔を、蕎麦先生は見下ろした。
 
 
 
「……教えてくれ、ケンスケ。僕は何を忘れているんだ?
 
 この場所であった事を、封印していた記憶を、かなり思い出してきた……
 
 だからこそ、分かるんだ。君達は……
 
 本当の意味での、『悪霊』じゃない」
 
 
 
床でじたばたともがき続けるケンスケに、蕎麦先生は届いているかも分からぬ言葉を、投げ続ける。
 
 
 
「君達には『悪意』が無い。だから僕は、祟り殺されずにここまで来れた。
 
 ……それとなく、分かっていたのかもしれない。僕は美耶子に、心霊から身を守るための道具を全部預けた。
 
 危機感を、感じなかったんだ。直感的なものだが……確かに……」
 
 
 
そこまで言った時、蕎麦先生の背後から差す窓の光が、不意に消えた。
 
振り返る蕎麦先生の前には格子の向こうに広がる闇ではなく、
 
格子を掴み、それに顔を押し付けている女の顔があった。
 
骨のように痩せた女は、蕎麦先生の顔をよどんだ目で凝視したまま、かすれた声を放った。
 
 
 
「キミハ、クレヨン……」 
 
 
 
 


 

前のページへ 目次 次のページへ→

inserted by FC2 system